ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!
![10132282334_s[1]](http://blog-imgs-49.fc2.com/1/9/6/19601118hhj/20110919225709e2f.jpg)
Twitterに元CXアナウンサーの長野智子氏がつぶやいていた・・・。
どうやら・亡くなられた逸見政孝氏のご長男の、最近の健闘ぶりに、かつての元上司健在の頃を
思い起こしたようで・・・。

・・その昔、朝日放送「素敵にドキュメント」でのロケの合間に、浅草で初めて


ロケの合間にの、僅かな時間、余程嬉しかったのであろう、逸見さんご本人の新築の豪邸に、「大型の業務用映像プロジェクターをリビングに設置したんだ・・。」と切り出された・・。
搬入設置には、大型クレーンが動員され、電源工事も含めて大変な騒ぎだった、とのお話・・・。

当時のワタシは、逸見氏と出会う直前まで、民営化間もないNTTのアド会社の映像部に出向しており、催事用の大型の「テレビ会議システム」なんぞという、洋服ダンスを3台位横に並べた様な機械をイジッテた関係で多少の造詣があり、食事会の場に居合わせた、局のプロデューサーや、ワタシの上司を差し置いて、専門的な会話で、ふたりで大いに盛り上がってしまった・・・。
「バーコってメーカーの製品でね、放熱がどうの・・、電力消費がどうの・・・。」
逸見氏満面の笑みを横で座って聞いていた
「あの日、あの時・・。」

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http://www.youtube.com/watch?v=zzedtBwmp2E
後藤幸一氏監督・上原多香子さん主演の映画「恋谷橋」が11月19日(土)よりロードショー公開される。
昔、テレビ朝日のグループ会社をやめ、数社の映像製作会社を転々とした後、映画フィルムの世界が知りたくて転がり込んだのが後藤監督の事務所・・・。
日本が誇るテレビ製作会社「テレビマンユニオン」に勤めてらした方と御結婚され、ATGで幾本もの本編を既に手掛けられて、その合間に2時間ドラマをはじめ、多くのドラマ監督を勤めていらした・・。
ある年の夏、東京・新宿の小さなワンルームマンションに仕事場を設けていた頃、初めてお遭いした。
日焼けした肌にクリクリした目は時に鋭く、髪は常に五分刈り頭、歩くのがとても早足でお酒をこよなく愛し、ほんとうに、ほんとうによく・・・御馳走になった。
後にも先にもこんなにお酒のお供をさせて頂いた事は無いだろう・・。

BS11映画「恋谷橋」特番画面より「後藤 幸一」監督
出逢ってスグに、ABC朝日放送の情報番組製作を長い間、ご一緒した。
その間、一部屋だった仕事部屋がふた部屋になり、別棟をビデオ編集用に借り、更に大きなビルのワンフロアを借りるようになり、あっという間に名古屋地区に支社を開設するまでの所帯となった。
監督にお連れ戴いたとある店で、今の家内と出会い結婚。彼の地フィリピンでの挙式にもわざわざ参列下さり、加えて東京で、逸見政孝氏(故人)や峰 竜太氏等番組で当時お世話になった著名な方々を披露宴・発起人に推挙し一切を取り仕切っていただいた・・・。
生々流転・・、我がブログの冒頭やプロフィールにあるとおり、現在、映像業界を離れてもいま尚、心温まるお手紙を度々頂戴し、感謝の念に耐えない。
何よりも私ら夫婦がいまだ幸せにやっている様子を何よりも喜んでいてくださる・・・。
興行の成功を心からお祈りしたい・・・・。
www.koitani.co.jp/


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コンビ二に立ち寄ったらば、東映の戦隊もののMOOKが発売されていた。
別段、こういったもののマニアでは無いがテレビの編成改変期に併せて企画の浪費を数十年続ける市場のシステムがわたしは嫌いだ・・・・・。
東映、テレビ朝日、旭通信社(ドラえもんで白亜のビルが建った)・・・。
日曜の朝を独占し続け、玩具メーカとドロドロに組み、まず、敵を殺傷する武器を企画し、マスクの造詣をチョコチョコいじり、系列の俳優養成所から兵隊を低賃金で囲い、おじいちゃん、おばあちゃんの年金を狙い、孫はものの大切さ、有り難さを知る事無く・・肉体のみが成長し、ネットゲームや携帯の仮想空間にのめり込み、鬱屈し歪み、低賃金でブランド財布を持ち、やがて人込みの歩行者天国へフルアクセルで突入する・・・・「人」の痛みを知らぬこれもまた「人」・・・・。
みなさん、どう思うか?・・・・・決して、深読みやオーバーな話では無い。
核家族化が進み「人」の生き死にに感受性が無く育つ・・・。
インコ、犬、猫、金魚・・・死んだら、「また買えばいい」それすらも成長期に経験せず情報社会に没入する子供たち・・・。

昭和時代、おじさんたちは、「魔法使いサリー」(昭和41年 1966~)が親友のよっちゃんに自分は魔法使いである事を告げ魔法の国へ帰り、「ウルトラセブン」(昭和42年 1976~) は同僚の女性隊員アンヌに自分は光りの国の使者である事を告げ、「みなしごハッチ」(昭和45年 1970~)は女王蜂のママと波乱万丈の末再会を果たし・・・・。
ボロボロ、ボロボロ、「泣ける最終回」を産み出せぬ「企画」を創らない「おバカエリート」さん・・・・。

大家族で暮さずとも、十分、成長期に「痛み」の判る「バカおとこ」として多少でも居られるのは、こうした昭和のテレビ企画の恩恵である。
「大戦隊ゴーグルファイブ」(1982年)に石井茂樹さんという俳優がいらっしゃる。
わたしと同様に日本舞踊や民族舞踊を習っていたが、高校進学の際、きっぱりと止め高校卒業後東映の俳優養成所で研鑽を積み、映画デビューした。
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実は、ご本人にはついぞ声を掛けなかったが、わたしがテレビ朝日報道局に勤務当時、東京・六本木の旧テレビ朝日地下の社員食堂やテレビ中継車倉庫脇にあったリハーサル棟で何度か姿を拝見していた・・・・。
受験の為の合宿で伊豆へ出掛けた夏、彼と民宿の押入れでラジオカセットに当時社会的ブームだった深夜ディスクジョッキーのパロディーを吹き込んで大爆笑した・・・。
当然、10年かそこいらの空白期間なので、お互い声掛けしてあれこれ旧交を・・・なんぞのパターンもあったのだろうが、当時のわたしは既にこのブログで触れているとおり、背水の陣の境遇であった事が、「彼」への経過説明が欝とおしく面倒で二の足を踏んだ・・・・・・。
今、もしお逢いしたなら、一晩じゅう語り明かせる・・・かな・・・。


今夜、日本テレビで「世界仰天ニュース」の特番が放映されている・・・。

番組の大半を占めるVTR構成部分の「ナレーター」は我らが、「槙 大輔」さん!
以前の仕事のままなら実に20数年以上は軽く超えるお付き合いになる筈である・・・・。
わたしと、家内が東京・新宿で開いた結婚披露宴にも御出でいただき、お祝いのスピーチをしてくださった・・。

http://www.sigma7.co.jp/index.html
日本を代表する、「特別なナレーター」である。
古くは東京・千駄ヶ谷の「俳優生活協同組合」俗に「俳協」というあらゆるジャンルの俳優・とりわけ重鎮を束ねた組織の方であった・・・・・。
昭和時代の方ならご記憶にあるだろうか?アメリカからやってきた家庭用洗濯洗剤「全温度チアー」や、昭和のフィクサー・日本船舶振興会・笹川良一会長の「一日一膳」など初期のテレビコマーシャルから、ほんとうに、ほんとうに、息の永い活動をされている・・・。スゴイ方だ・・・・・。

http://www.satv.co.jp/0400announcer/0500anablog/nakano/201102/img/24ji3_0.jpg
わたしの数々の東証一部上場企業の「産業映画」や「産業ビデオ」ありとあらゆる作品をナレーターとしてお付き合い戴いた。ギャラも一流だが、その暖かな「声」の響きも一流である。
テレビから彼の「声」がする度、家内にこう尋ねる事にしている・・・・。
「ママ、判る?ふたりの結婚パーティーに来てくれた人だよ?・・・・。」
「ウン・・・。ワカルヨ・・・。」
この方の「声」が日本のテレビから「聴こえぬ日」は数十年、皆無なのだ・・・・。

番組の大半を占めるVTR構成部分の「ナレーター」は我らが、「槙 大輔」さん!
以前の仕事のままなら実に20数年以上は軽く超えるお付き合いになる筈である・・・・。
わたしと、家内が東京・新宿で開いた結婚披露宴にも御出でいただき、お祝いのスピーチをしてくださった・・。

http://www.sigma7.co.jp/index.html
日本を代表する、「特別なナレーター」である。
古くは東京・千駄ヶ谷の「俳優生活協同組合」俗に「俳協」というあらゆるジャンルの俳優・とりわけ重鎮を束ねた組織の方であった・・・・・。
昭和時代の方ならご記憶にあるだろうか?アメリカからやってきた家庭用洗濯洗剤「全温度チアー」や、昭和のフィクサー・日本船舶振興会・笹川良一会長の「一日一膳」など初期のテレビコマーシャルから、ほんとうに、ほんとうに、息の永い活動をされている・・・。スゴイ方だ・・・・・。

http://www.satv.co.jp/0400announcer/0500anablog/nakano/201102/img/24ji3_0.jpg
わたしの数々の東証一部上場企業の「産業映画」や「産業ビデオ」ありとあらゆる作品をナレーターとしてお付き合い戴いた。ギャラも一流だが、その暖かな「声」の響きも一流である。
テレビから彼の「声」がする度、家内にこう尋ねる事にしている・・・・。
「ママ、判る?ふたりの結婚パーティーに来てくれた人だよ?・・・・。」
「ウン・・・。ワカルヨ・・・。」
この方の「声」が日本のテレビから「聴こえぬ日」は数十年、皆無なのだ・・・・。

雑事に取り紛れ今年のGWにお話するのを失念していた・・・。
わたしと家内の結婚披露宴の発起人のおひとりであり、デビューから存じ上げた「清水由貴子さん」・・・。
4月にお父様の墓前で亡くなられてもう、3年がたつ・・・。
昭和34年(1959)浅草生まれの苦労人である・・。
日本テレビで昭和46年(1971)から12年もの永い間続いた「スター誕生」という一世を風靡したオーディション番組・・・。
当時、現在の「ジャニーズ事務所」の如く、その権勢を誇った「渡辺プロダクション」の対抗勢力が、逸材獲得・利権確保の為に始めた番組だ・・・。
彼女は歴代優勝者の「桜田淳子さん」や「山口百恵さん」の20数社という指名競争社数に継ぐ、14社のプロダクション・レコード会社の指名を受、け高校に在学しながらデビュー・・・。

この記事を書く為に調べたら、驚いた事にわたしの母が亡くなった年昭和51年(1976)当時、偶然にも同じ町内に、彼女の所属事務所がアパートを借りデビューに向け、単身暮していたようだ・・。
翌年3月、CBSソニーよりデビュー、オリコンチャート30位を記録・・。
このブログでも触れているとおり、一方のわたしは母の死後、好きではナカッタ舞台の仕事を辞めたいと、申し出、国立劇場の方のお世話で舞台音響マンに転向し、この年の夏、後楽園ジャンボプールでのライブで彼女のミキシング・エンジニアを勤めることになる・・・。
その後彼女は、浅草出身の昭和の大コメディアン「萩本欽一」氏の大ブレイクに伴い活躍する・・・。
・・・時は「過ぎ」・・結婚直前、ディレクターデビューして暫らく後、「朝日放送」の「素敵にドキュメント」や「平成ふしぎ探検隊」で偶然にも、ふたたび、番組リポーターの彼女と、京都の「京野菜」を紹介するロケでご一緒した・・。食事休憩の時、わたしからデビュー当時に、音響スタッフとして、遠い昔にお会いした事を切り出すと、おおいに喜んで下さった・・・。
・・・当時のライブの会場の「清水由貴子」追っかけ部隊の中に、ひときわ巨大な体格の少年が居た事を思い出し話題にすると、顔がみるみる「曇り」、「ああ、アノ子・・、亡くなったんですよ・・・・。」と宙を見つめた・・・。
仕事中に不味いコトを聴いてしまった・・・。

東京・新宿の披露宴ではお会いするコトは出来なかったが、発起人のおひとりとしてご賛同戴き、メッセージカードを添えた「花束」まで戴いた・・・・。
その時の「お礼」をしていない。なんという「恩知らず」だろう・・・。
「ごめんなさい。」そして、「ありがとう。」・・・今更、遅いか・・・・・・・。
わたしと家内の結婚披露宴の発起人のおひとりであり、デビューから存じ上げた「清水由貴子さん」・・・。
4月にお父様の墓前で亡くなられてもう、3年がたつ・・・。
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昭和34年(1959)浅草生まれの苦労人である・・。
日本テレビで昭和46年(1971)から12年もの永い間続いた「スター誕生」という一世を風靡したオーディション番組・・・。
当時、現在の「ジャニーズ事務所」の如く、その権勢を誇った「渡辺プロダクション」の対抗勢力が、逸材獲得・利権確保の為に始めた番組だ・・・。
彼女は歴代優勝者の「桜田淳子さん」や「山口百恵さん」の20数社という指名競争社数に継ぐ、14社のプロダクション・レコード会社の指名を受、け高校に在学しながらデビュー・・・。

この記事を書く為に調べたら、驚いた事にわたしの母が亡くなった年昭和51年(1976)当時、偶然にも同じ町内に、彼女の所属事務所がアパートを借りデビューに向け、単身暮していたようだ・・。
翌年3月、CBSソニーよりデビュー、オリコンチャート30位を記録・・。
このブログでも触れているとおり、一方のわたしは母の死後、好きではナカッタ舞台の仕事を辞めたいと、申し出、国立劇場の方のお世話で舞台音響マンに転向し、この年の夏、後楽園ジャンボプールでのライブで彼女のミキシング・エンジニアを勤めることになる・・・。
その後彼女は、浅草出身の昭和の大コメディアン「萩本欽一」氏の大ブレイクに伴い活躍する・・・。
・・・時は「過ぎ」・・結婚直前、ディレクターデビューして暫らく後、「朝日放送」の「素敵にドキュメント」や「平成ふしぎ探検隊」で偶然にも、ふたたび、番組リポーターの彼女と、京都の「京野菜」を紹介するロケでご一緒した・・。食事休憩の時、わたしからデビュー当時に、音響スタッフとして、遠い昔にお会いした事を切り出すと、おおいに喜んで下さった・・・。
・・・当時のライブの会場の「清水由貴子」追っかけ部隊の中に、ひときわ巨大な体格の少年が居た事を思い出し話題にすると、顔がみるみる「曇り」、「ああ、アノ子・・、亡くなったんですよ・・・・。」と宙を見つめた・・・。
仕事中に不味いコトを聴いてしまった・・・。

東京・新宿の披露宴ではお会いするコトは出来なかったが、発起人のおひとりとしてご賛同戴き、メッセージカードを添えた「花束」まで戴いた・・・・。
その時の「お礼」をしていない。なんという「恩知らず」だろう・・・。
「ごめんなさい。」そして、「ありがとう。」・・・今更、遅いか・・・・・・・。






NHK・日本民間放送連盟、官民挙げての総力取材戦・・・。
「ジャパン・コンソーシアム」。緻密に「機能」しています。携わるみなさま、本当にご苦労様です・・。


http://getset.london2012.com/en/the-games/about-london-2012/the-london-2012-venues/international-broadcast-centre-and-main-press-centre
開催の度驚かされるのが「放送権料」の高騰・・・。
円建てレートで325億円



コレ、NHKと民放連の合同「御愛想」料金。
「国際オリンピック委員会」から「幹事さん」に指名されているのが、世界最大の広告代理店「電通」。
「契約書」だけ作成して、シコタマ「正規に抜いてる」。10ケタ位平気で「ヌイチャウ」のだ。

だーれも「文句」ナンカ言えない・・・。


若い頃、よく通いました・・・。
あまりの高額な契約に、今後脱落会社の出る可能性を示唆する民放経営者も居る・・・。
苦肉の策で「民放連」が企画したのが、コレ。


地上波・BSで放送しない競技限定で、生中継を行う。NHKは約1000時間、民放連は150時間配信。


みなさんの観る競技映像はここから「配信」されてます。
http://www.obs.es/index.html




http://www.obs.es/index.html
過去に、日本でも、放送専門学校が「充実した現場研修!」、「躍動する中継!」と入学案内パンフレットに豊富なテレビ中継現場写真を掲載して、盛んに勧誘してたコトがあった・・・。
実態は、ローカルネットの深夜帯の非常にチープな低予算の番組に「技術協力」の名目で「学校名」を番組エンドのスタッフロールに「挿入」させ、交換条件として、中継収録の補助作業(雑用)を「学生」たちに「無償」で「ヤラセル」」仕組み・・・。

「 OBS 」のホームページを観たらこの「ロンドン・オリンピック」の現場でも補助要員の「学生」を大量に募集・採用しているようだ・・・。
「正規雇用」の経験者・プロの作業者を雇用するよりも、安価に済む筈である・・・。
「世界中で抜きまくり」の連鎖・・・。
昔、わたしが30歳過ぎた頃に、「電通」のローカルラジオ・テレビ局の「参事」の「Nさん」とお仕事をご一緒させて戴いたコトがある・・。
「電通・N参事」じきじきのテレビ番組制作の依頼が、おつきあいの在った番組制作会社社長を通じて持ち込まれた・・・。
当時、バブル景気の真っ只中にあり、何処の会社も「仕事」は山のように有っても「ヒト」が全く「揃わない」状況にあった・・・。
「仕事」を振りたくても「受けられる会社」の皆無な窮状を察し、「どうせ、1クール(3ヶ月)で終了するだろう・・。」、と軽い考えの二つ返事で引き受けたのが大間違い


詳細は後日とさせて頂くが、大変な思いをスル事になるのだ・・・・。
「銀座」方面もご一緒したり、ご多用の中、度々、製作指揮に当たるわたしの番組をご覧になっては、「いつも、本当に、悪いねェ・・。」と、生放送の終了した翌日、ご丁寧なお電話を頂戴して、大変恐縮していた・・。

http://lovefreephoto.blog110.fc2.com/blog-entry-1566.html
何故、そんなにお気使い戴いたかと言えば、「製作予算」の大半を「社外費」として運用せねば「番組枠」の見栄が立たず、わたしの会社への「社内留保」が無い、つまり「赤字」運営だったのだ・・・。
「番組企画」の当事者が「電通のN参事」であるが故、「おつきあい上」、「質」を下げられなかったのだ・・・。
わたしの居た会社は皆、その「番組」の「先の未来」に期待をして・・・・。

4クール目の「番組製作延長」のお話が来た時、あまりの過酷・過剰な



「N参事」にも体力的・精神的に限界であり、続投の意志ナシと、お告げした・・。
自分が抜けてしまえば、「番組製作」自体、ご破算なのだ・・。
アトに続く人材が居ないのだ・・。
止む無く番組は出演者を総入れ替えして、「番組名」のみ引継ぎ「新装開店」したが、半年続かなかった・・。
・・・それから毎年、毎年、「N参事」から「お歳暮」を自宅に戴くことになるのだ・・・。
お付き合いも「切れた」のに・・・、延々毎年・・・。
年下の「チンケなアホの若造ディレクター」に「電通参事」じきじきに・・・。



中断していたFace Bookで20数年ぶりに、後輩の知人と再会を果たした・・。
「F」クン、いや、時すでに「F」さんとお呼びするべきだろう・・・。
このブログに度々登場する、昭和歌謡の大作曲家・筒美京平氏の従兄弟社長が経営する制作会社に勤務当時のことである・・。
広告代理店「電通」の参事じきじきの持ち込み企画に、わたしと「F」さん、それにプロデューサーの「M」さんで対応した1時間の情報ナマ番組・・。
生活情報からグルメ、映画、洋楽、スポンサーのTDL,と扱う幅が多方面に渡った・・。

http://www.ipa.go.jp/
高原 兄氏、堀江 淳氏、ジョージ・ルーカス監督、桂 由美氏、故ジョー山中氏、取材相手や大勢のレギュラー出演者、ゲスト。雪崩れの如くのスケジュールは持久戦となり、自宅に帰れぬ月日が延々続いた・・・。

http://www.pakutaso.com
洗濯物を、折り畳み自転車が収納できる位大きなバッグに詰め込み、着替えが無くなったら、タクシーで自宅へ帰り、コインランドリーを4台一気に廻し4時間程で再びタクシーで会社にとってかえす・・・。
昼間はロケ取材とロケ交渉、出演交渉、夜は構成台本、企画リサーチ、VTR編集、月曜の夜の生放送なので、週末は殆んど徹夜作業・・。
その全ての作業に「F」さんは付き合ってくれた・・。
何日も、何日も・・。終わりの見えない日々を過ごしたのだ・・。
東宝撮影所に程近い東京・祖師谷大蔵に住み、映画学校を経て、この会社にやって来た・・。
いつも元気で、明るく、笑うと顔をクシャクシャにする「F」さん・・。
白いスニーカーに綻びだらけのブルージーンズが若々しかった・・。
そんな彼の「奇跡」も、目の当たりにしたコトがある・・。
とあるシゴトで横浜の埠頭へ撮影に出掛けた翌日の朝、収録したVTRテープを仮編集用にダビングしようとした。
事務所の彼の机の周りは前日に撮影が終了したばかりで、小道具や荷物が散乱・・。
ところが荷物を掻き分け探せど探せど、撮影済みのVTRテープが一向に見つからない・・・。
突然、「F」さんは車のキーを掴むと、決死の形相で全力で事務所を飛び出した


恐らく、銀座から高速を使い、横浜港の公園へ向かったのだ・・。
そう、彼はついうっかり撮影したテープを、現場撤収の際に敷地内に置き忘れてきたのだった・・。

http://komekami.sakura.ne.jp/
「奇跡」なのだ。通りがかりの人に持ち去られるコト無く、雨が降るで無く、貴重な貴重な制作コストや大勢の労働力を集約した撮影済みテープは、前日、彼が撮影現場を立ち去ったアト、そのまんま、ソノマンマ・・、蒼白で駆けつけた彼の手に見事、戻った・・。
1年間の間、制作に没頭しわたしは疲弊し自ら番組を降板した・・。その後普通に
朝、起床し、
夜になれば眠りに就くのに大変な時間を要した・・。
「F」さんは共に歩んできたプロデユーサーとともに、わたしの後を引き継いで、別な会社に「移籍」し番組制作を続けた・・。
数ヵ月後、元ダウンタウン・ブギウギバンドのメンバーの方が経営する東京・歌舞伎町のお店で偶然、出会った。
わたしの顔を見るなり、
アルコールの力もあったのだろう、号泣しだした・・。
自分と組んでいた当時は、細かく面倒をみている物理的な時間が無く、演出・取材構成のスタイルは放置状態だった。
が、所属する会社が変わり、チーフプロデューサーが代わり、自ずと望まれるスタイルも変わるのだが、そんな、今の「自分」を全否定された、という・・。

http://www.ipa.go.jp/
かえす言葉が出なかった・・・。
わたしの所為でもある・・。当時のわたしでは、なだめるのが精一杯であった・・。
今なら、しっかり、受け止めてあげられるのだが・・・・・、遅いか。
「F」クン、いや、時すでに「F」さんとお呼びするべきだろう・・・。
このブログに度々登場する、昭和歌謡の大作曲家・筒美京平氏の従兄弟社長が経営する制作会社に勤務当時のことである・・。
広告代理店「電通」の参事じきじきの持ち込み企画に、わたしと「F」さん、それにプロデューサーの「M」さんで対応した1時間の情報ナマ番組・・。
生活情報からグルメ、映画、洋楽、スポンサーのTDL,と扱う幅が多方面に渡った・・。

http://www.ipa.go.jp/
高原 兄氏、堀江 淳氏、ジョージ・ルーカス監督、桂 由美氏、故ジョー山中氏、取材相手や大勢のレギュラー出演者、ゲスト。雪崩れの如くのスケジュールは持久戦となり、自宅に帰れぬ月日が延々続いた・・・。

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洗濯物を、折り畳み自転車が収納できる位大きなバッグに詰め込み、着替えが無くなったら、タクシーで自宅へ帰り、コインランドリーを4台一気に廻し4時間程で再びタクシーで会社にとってかえす・・・。
昼間はロケ取材とロケ交渉、出演交渉、夜は構成台本、企画リサーチ、VTR編集、月曜の夜の生放送なので、週末は殆んど徹夜作業・・。
その全ての作業に「F」さんは付き合ってくれた・・。
何日も、何日も・・。終わりの見えない日々を過ごしたのだ・・。
東宝撮影所に程近い東京・祖師谷大蔵に住み、映画学校を経て、この会社にやって来た・・。
いつも元気で、明るく、笑うと顔をクシャクシャにする「F」さん・・。
白いスニーカーに綻びだらけのブルージーンズが若々しかった・・。
そんな彼の「奇跡」も、目の当たりにしたコトがある・・。
とあるシゴトで横浜の埠頭へ撮影に出掛けた翌日の朝、収録したVTRテープを仮編集用にダビングしようとした。
事務所の彼の机の周りは前日に撮影が終了したばかりで、小道具や荷物が散乱・・。

突然、「F」さんは車のキーを掴むと、決死の形相で全力で事務所を飛び出した



恐らく、銀座から高速を使い、横浜港の公園へ向かったのだ・・。
そう、彼はついうっかり撮影したテープを、現場撤収の際に敷地内に置き忘れてきたのだった・・。

http://komekami.sakura.ne.jp/
「奇跡」なのだ。通りがかりの人に持ち去られるコト無く、雨が降るで無く、貴重な貴重な制作コストや大勢の労働力を集約した撮影済みテープは、前日、彼が撮影現場を立ち去ったアト、そのまんま、ソノマンマ・・、蒼白で駆けつけた彼の手に見事、戻った・・。
1年間の間、制作に没頭しわたしは疲弊し自ら番組を降板した・・。その後普通に


「F」さんは共に歩んできたプロデユーサーとともに、わたしの後を引き継いで、別な会社に「移籍」し番組制作を続けた・・。

わたしの顔を見るなり、

自分と組んでいた当時は、細かく面倒をみている物理的な時間が無く、演出・取材構成のスタイルは放置状態だった。
が、所属する会社が変わり、チーフプロデューサーが代わり、自ずと望まれるスタイルも変わるのだが、そんな、今の「自分」を全否定された、という・・。

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かえす言葉が出なかった・・・。
わたしの所為でもある・・。当時のわたしでは、なだめるのが精一杯であった・・。
今なら、しっかり、受け止めてあげられるのだが・・・・・、遅いか。

「吉屋 信子」氏なる明治生まれの小説家が、(昭和46年・1971年没)亡くなる2年前に「週間朝日」に連載執筆した長編時代小説「女人平家」のテレビドラマ版がBS11にて現在放映中である。
bs11.jp/drama/1970/
漢学者で、後の鎌倉幕府の実力者・大江広元と尼寺育ちの「吉永小百合」氏演じる「女人」の悲恋を平家興亡の歴史と絡めあわせ描く時代絵巻・・。(昭和46年・1971年10月~全20話)

(テレビ画面より)
故「田中 絹代」氏、「有馬 稲子」氏、「新藤 恵美」氏他映画・演劇の重鎮が競演する。
NHKの日曜よるの「大河ドラマ」が、まだ「大型時代劇」と呼ばれた当時、大阪「朝日放送」と斜陽した映画本編製作に見切りを付け、テレビ映画にシフトした「松竹京都映画」の渾身の作品。

(テレビ画面より)
製作予算の大半は出演料と美術費、衣装・小道具とに割り振られたであろう事から、平等院鳳凰堂や京都御所近辺の外壁等、ふんだんなロケセットで「御殿」以外の美術費を切り詰めている様子が伺える・・。
手前の「御車」の隊列を明るく照射し、奥へ連綿と続く「たいまつ」行列シーン。当時のフィルム感度で、リアルな夜間の屋外でのこの様な撮影は、相当の時間を要した筈である・・。40数分の画像構成の中で、こうした「ロングショット」が本当に少ない・・。「画」を拡げれば広くしたぶん、予算が掛かるのだ。

(テレビ画面より)
「東映京都」の大規模な敷地で創り込むセットには敵わないものの、「御殿」を模した狭いセットでも奥行き感を出すなど随所にその撮影苦労が偲ばれる。
そんな中、「手抜きカット」も発見した・・。画像を撮り損ねているのだが、公家式結婚(と思うが)のくだりで、「母屋の階段をおごそかに登るシーン」が描かれる。
「おひきずり」で足元が見えない為、その「お足元」を撮る為何を思ったのか「監督」は、階段の裏側にカメラを構えたのだが、コノ「1間ほどの小さな黒塗りの階段」がそれは陳腐なボコボコのキズだらけの代物。
当時の「大阪・朝日放送」のドラマ部門映えぬきのディレクターおふたりと、故「勝新太郎」氏主演の「悪名」や故「市川雷蔵」氏主演の「眠狂四郎」シリーズなど手掛けた有名監督らが持ち回りで「監督演出」。
この中に「大熊邦也」氏と仰る方がおいでになる。昭和育ちの方ならばこの方のドラマの名前くらい、一つはご存知な筈・・。
「天皇の世紀」「おくどはん」「ザ・ハングマン 」「新 必殺仕置人」「必殺からくり人 」「必殺仕業人」「必殺必中仕事屋稼業」「斬り抜ける」等々。
わたしは結婚前、「大阪・朝日放送」発局の一連の情報番組で、この方の「プロデュース」の下で大変にお世話に成った・・。わたしとこの「大巨匠」を結びつけて下さったのは、既にこのブログでご紹介の映画監督である。
※関連記事が2013年11月7日付けにございます!是非!ご覧下さい!
今現在、数ある「人物検索」でこの方のお名前を調べても、その「来歴」に触れたものが全く無い。
並み居る監督・プロデューサー群の中で、ドラマ・情報バラエティも含め数百本を手掛けていらしたのに、この状態は誠にお気の毒である・・。
仕事には大変厳しい方であり、作品の仕上がりが叶わなければ放送直前であろうと容赦なく「再度撮影」「再編集」を求め強面でも著名で、その手のハナシには枚挙に暇が無い・・。
ある年の

秋頃だったか、たまたま当時お世話に成っていた東京・新宿の映画監督の事務所近くに、関西のご自宅とは別にセカンドハウスを設け引っ越されて来た事があり、「お祝い」にお部屋の片付け・掃除にABCプロデューサーの方らと駈け付けた事がある・・。
留守中に電気の配線やらガスコンロの油汚れやらを修繕したらば、大変なお喜びようで出先から帰り戻ったその足で「食事に行こう!」と

タクシー数台を連ね「赤坂」へと案内された。

高級イタリアンレストランで10数万円分もの飲食をして、かえって大変恐縮してしまった・・。

今日3月5日は、わたしと妻の十数回目の「結婚記念日」である・・。
東京・新宿で開いた「披露パーティー」も、故「逸見政孝」氏とならんで発起人のおひとりとしてお世話戴いた・・。
ほんとうに、ありがとうございました・・。

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bs11.jp/drama/1970/


(テレビ画面より)
故「田中 絹代」氏、「有馬 稲子」氏、「新藤 恵美」氏他映画・演劇の重鎮が競演する。
NHKの日曜よるの「大河ドラマ」が、まだ「大型時代劇」と呼ばれた当時、大阪「朝日放送」と斜陽した映画本編製作に見切りを付け、テレビ映画にシフトした「松竹京都映画」の渾身の作品。

(テレビ画面より)
製作予算の大半は出演料と美術費、衣装・小道具とに割り振られたであろう事から、平等院鳳凰堂や京都御所近辺の外壁等、ふんだんなロケセットで「御殿」以外の美術費を切り詰めている様子が伺える・・。


(テレビ画面より)
「東映京都」の大規模な敷地で創り込むセットには敵わないものの、「御殿」を模した狭いセットでも奥行き感を出すなど随所にその撮影苦労が偲ばれる。
そんな中、「手抜きカット」も発見した・・。画像を撮り損ねているのだが、公家式結婚(と思うが)のくだりで、「母屋の階段をおごそかに登るシーン」が描かれる。
「おひきずり」で足元が見えない為、その「お足元」を撮る為何を思ったのか「監督」は、階段の裏側にカメラを構えたのだが、コノ「1間ほどの小さな黒塗りの階段」がそれは陳腐なボコボコのキズだらけの代物。

当時の「大阪・朝日放送」のドラマ部門映えぬきのディレクターおふたりと、故「勝新太郎」氏主演の「悪名」や故「市川雷蔵」氏主演の「眠狂四郎」シリーズなど手掛けた有名監督らが持ち回りで「監督演出」。
この中に「大熊邦也」氏と仰る方がおいでになる。昭和育ちの方ならばこの方のドラマの名前くらい、一つはご存知な筈・・。
「天皇の世紀」「おくどはん」「ザ・ハングマン 」「新 必殺仕置人」「必殺からくり人 」「必殺仕業人」「必殺必中仕事屋稼業」「斬り抜ける」等々。
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わたしは結婚前、「大阪・朝日放送」発局の一連の情報番組で、この方の「プロデュース」の下で大変にお世話に成った・・。わたしとこの「大巨匠」を結びつけて下さったのは、既にこのブログでご紹介の映画監督である。
※関連記事が2013年11月7日付けにございます!是非!ご覧下さい!
今現在、数ある「人物検索」でこの方のお名前を調べても、その「来歴」に触れたものが全く無い。
並み居る監督・プロデューサー群の中で、ドラマ・情報バラエティも含め数百本を手掛けていらしたのに、この状態は誠にお気の毒である・・。
仕事には大変厳しい方であり、作品の仕上がりが叶わなければ放送直前であろうと容赦なく「再度撮影」「再編集」を求め強面でも著名で、その手のハナシには枚挙に暇が無い・・。
ある年の



留守中に電気の配線やらガスコンロの油汚れやらを修繕したらば、大変なお喜びようで出先から帰り戻ったその足で「食事に行こう!」と








東京・新宿で開いた「披露パーティー」も、故「逸見政孝」氏とならんで発起人のおひとりとしてお世話戴いた・・。

ほんとうに、ありがとうございました・・。

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目下ダイエット中である。
夜、極力「ご飯粒」を口に入れぬようにして、「野菜サラダ」を多めに採っている。
3キロはスグに落とせたのだが・・・、その先の「期待」は薄い。
空腹で寝付けずに、真夜中目が覚めてしまい、焼酎をロック・グラスに入れテレビの前へ・・・・。
CS「TBSチャンネル2」で「大映テレビ」製作「少女に何が起こったか」(昭和60年・1985年~全12話)。

(テレビ画面より)
主演は、いまNHK「あまちゃん」のお母さんを演じてる人、「今」のほうが「素敵」である。
右の男は「チーボー」のお父さんで「刑事」のヒト。
毎夜12時になるとカノジョの元に現れて「罵る」。
カミサンが目覚めると面倒なので、「音声」を消しての視聴・・。
それでも充分、ストーリーが判ってしまうのが「大映テレビ」製作ドラマのスゲぇートコ。

(テレビ画面より)
主役のカノジョが尋ねた御曹司の「豪華マンション」。NHK受信料は払って無い・・・。

(テレビ画面より)
いまどき、先生とはいえ「教え子」を部屋にあげ背後からこんな風にしたら、ドコゾの「大企業」の常務役員のように「セクハラ」になっちゃう



(テレビ画面より)
「師弟愛」は「情欲」を粉砕し、激しくピアノレッスン
それにしても、コノ衣装、シルクの蛍光色って、どうよ


(テレビ画面より)
音楽大学のセレブな生徒達・・・。皆、主役の彼女が嫌いだ。すんごい目つき・・。
授業は「私服」でいいのに・・・。

(テレビ画面より)
自宅のピアノに向かって「怒鳴り出した」・・。
「堀ちえみ」氏や「山下真司」氏のシリーズの後の製作作品。
もともと
「時代劇」ルーツの「撮影所社風」が、終戦と淘汰の時代の流れの中で「現代劇」を「所属俳優も製作陣」も創らざるを得ない状況下、「サムライ映画」風の「オーバーな脚本・過剰な芝居演出」が施され、それが「定着」した。
昔、わたしの居た会社に都内の著名な「ヘリコプター」会社を転々とされた「営業マンN」氏が「就社」した。
ドラマ・映画の「空撮」専門のコーディネート業務。
その「N」氏の「ご縁」で「大映テレビ」の「K」氏という「ドラマプロデューサー」から「お仕事」を戴いた・・。
ご自分の担当された「連続ドラマ」や「2時間ドラマ」の「舞台」として幾度も沖縄や奄美大島諸島を訪れるうちに、「奄美大島紬」の生産者の方から、東京を「舞台」にしたプロモーション・ビデオの制作依頼だ。
ビデオは「Kプロデューサー」からご好評を戴き、「営業マンN」氏と共に胸を撫で下ろしていると数日後、「夕刻、渋谷で逢おう」とお誘いを受けた・・・。
詳細な記憶は曖昧だが、待ち合わせ場所に行くと
「東急バス」で世田谷方面に向かった・・。
(大プロデューサーだからタクシーかと思ったが・・。)
案内されたのは、実は殆んど覚えてイナイのだが、その「Kプロデューサー」の「門下生」の集まりであったようだ・・。
「今、一緒にビデオを創っている若い新人ディレクターです!新鮮な感覚の持ち主だ!」と持ち上げられ、十数名の俳優志望の若者の前で「自己紹介」させられた・・。
何か、次のお仕事の依頼でも在るのか、その「門下生」さんらと何かジョイントさせて戴くのか・・、こちらが期待した流れは、その後何も無かった・・。
「門下生諸氏」は今現在もご活躍中のようで、ネットで検索し「来歴」を見ると、その「Kプロデューサー」が登場する。
世田谷からは
タクシーを拾って帰った。狐に摘ままれた想いが「少し」した・・・。
(この「奄美大島紬」のビデオ制作の件はいづれの機会に)
夜、極力「ご飯粒」を口に入れぬようにして、「野菜サラダ」を多めに採っている。
3キロはスグに落とせたのだが・・・、その先の「期待」は薄い。
空腹で寝付けずに、真夜中目が覚めてしまい、焼酎をロック・グラスに入れテレビの前へ・・・・。


(テレビ画面より)
主演は、いまNHK「あまちゃん」のお母さんを演じてる人、「今」のほうが「素敵」である。
右の男は「チーボー」のお父さんで「刑事」のヒト。


それでも充分、ストーリーが判ってしまうのが「大映テレビ」製作ドラマのスゲぇートコ。

(テレビ画面より)


(テレビ画面より)





(テレビ画面より)


それにしても、コノ衣装、シルクの蛍光色って、どうよ



(テレビ画面より)

授業は「私服」でいいのに・・・。

(テレビ画面より)

「堀ちえみ」氏や「山下真司」氏のシリーズの後の製作作品。
もともと

昔、わたしの居た会社に都内の著名な「ヘリコプター」会社を転々とされた「営業マンN」氏が「就社」した。
ドラマ・映画の「空撮」専門のコーディネート業務。
その「N」氏の「ご縁」で「大映テレビ」の「K」氏という「ドラマプロデューサー」から「お仕事」を戴いた・・。
ご自分の担当された「連続ドラマ」や「2時間ドラマ」の「舞台」として幾度も沖縄や奄美大島諸島を訪れるうちに、「奄美大島紬」の生産者の方から、東京を「舞台」にしたプロモーション・ビデオの制作依頼だ。
ビデオは「Kプロデューサー」からご好評を戴き、「営業マンN」氏と共に胸を撫で下ろしていると数日後、「夕刻、渋谷で逢おう」とお誘いを受けた・・・。
詳細な記憶は曖昧だが、待ち合わせ場所に行くと

(大プロデューサーだからタクシーかと思ったが・・。)
案内されたのは、実は殆んど覚えてイナイのだが、その「Kプロデューサー」の「門下生」の集まりであったようだ・・。
「今、一緒にビデオを創っている若い新人ディレクターです!新鮮な感覚の持ち主だ!」と持ち上げられ、十数名の俳優志望の若者の前で「自己紹介」させられた・・。
何か、次のお仕事の依頼でも在るのか、その「門下生」さんらと何かジョイントさせて戴くのか・・、こちらが期待した流れは、その後何も無かった・・。
「門下生諸氏」は今現在もご活躍中のようで、ネットで検索し「来歴」を見ると、その「Kプロデューサー」が登場する。
世田谷からは


(この「奄美大島紬」のビデオ制作の件はいづれの機会に)
どーでもイイ話だけれど、
この11月、誕生日を迎えた、ってそんな目出度い字で無く、来ちゃった、過ぎちゃった・・・、か?
そのおたんじょーびの週はわたしの仕事は日勤であったので、我がプリンセスを
毎夕刻、カノジョの会社マデ迎えに行った。
マニラ首都圏の教会で式を挙げ、多くの方々、先輩にお祝い戴き結婚20年、一度も途切れるコト無く続いた「タンジョービ、オメデト・・」の心温まるひと言は、とうとう、ついに、何の前触れも無く、途切れた・・・、息絶えた・・。
それでも、カノジョは何の意図も無さそーに毎夜、ソノ日一日の会社内の出来事を、あーだ、こーだと聞かせてくれた。
「あー、忘れてんだ、たんじょーび」・・、20ネン繰り返しスリャ、そーだよね・・。」
一方、
異国の実家では、わたし同様、カミサンのお母さんが
誕生日を迎えた。
パーティー会場となった改築中の実家の壁に選挙ポスターみたいな巨大看板

バルーンで83と書いてある、会場設営中のスナップ。
笑顔のヒトがお母さん。一男五女を立派に産み育てた。
我がカミサンと島根県に住む姉さんの二人が、この家族を数十年に渡り経済的に支え続け、各々家庭を設けその孫たちは次々と進学・就職し、続々と羨望のスタートを切っている。
今まさに
苦労の花
が咲き誇りだしたのだ。
六人兄弟一番下の一男が撮影のピンぼけ写真。
上の看板もびっくりだが、パーティの来客用招待状、テーブル、屋外テント、音響装置、設営から料理のケータリングに至る迄全て業者に任せたらしい。


この誕生会の招待客は200人

俺なんか、誰か呼んだって20人も集められない。

欧米風の異様に甘そーな
ケーキが並ぶ。

再び一男のピンぼけ写真。
自分の誕生日でも無いのに、嬉しくて昼過ぎから飲みすぎてコノ一枚。
料理テーブルの奥に画面が見えるでしょ。
準備中から姪っ子がノートPCのカメラでその様子を延々、
ナマ中継してくれた。
会場内の何気ない喧騒や食器とフォークの擦れる音に臨場感満点の時間を現地と共有デキタ・・・。


来客は、気が向けばノートPCに話し掛けて、日本のカミサンと会話を楽しんだ。
アリガタイ時代になったもんだ。
テクノロジーの進歩に感謝・・。
カミサンの国では、特にプレゼントのやりとりなど無く、呼ばれた客はただ、ただ集って食べるだけらしい。
ところで我が生涯のプレゼントで思い出に残るのは、何か?と考えたのだが、異性から貰ったモノではナクテ、テレビ朝日グループの製作技術会社に在籍当時、会社のコーポレート・アイデンティティ新設を兼ねたお披露目パーティーで、もう既にお亡くなりになられた社長から、表彰商品で頂いた携帯CDプレーヤーと、東京・銀座は由緒ある文具店「伊東屋」で2万円ほどした高級システム手帳だろう。
合成皮革のケースに分厚い布ベルトが付き、肩からぶら下げて聴いた・・。
「世界のSONY」が肩で風切ってた時代・・・。
コノプレーヤー、チョッと揺すると音が飛びまくった・・・・。

http://www.sony.co.jp/Fun/design/history/product/1980/d-50.html
もはや手元には無いが、システム手帳の方は、その後のディレクター人生を過す間、かなり長い期間、大切に大切に使った。こちらも合成皮革製の英和辞典くらいの大きさのズッシリとしたもので、電卓からポストイット、折畳みの世界地図、等様々な気の利いた帳票がビッシリ詰まってた・・・・。
ズッシリ・ビッシリ。
さて、ココまで書いてきてなんだが、11月のわたしの誕生日の週末を越えた月曜日、会社で勤務中、落ち着きを失った様子のカミサンに会社の数人の同僚が、どうしたの?と尋ねて来たらしい。
「ナニカ、ワスレテルンダ、ワタシ・・、ナンダカ、ワッカンナイケド・・、ジュウイチガツ、オカアサンノタンジョービ・・・。」
わたしのクルマでの会社へのお迎えを拒んだカミサンは、その夜、白い包みを手に、慌てた様子で帰宅した。
「ゴメナサーイ!!」(ごめん、では無い)
冬モノのコート・・・・。

カミサンは、毎年、

冬が本格化すると、わたしに何の相談も無く、「アナタ、カワイソウ、カラ・・。」と言ってダウンジャケットやコートを買って来る。
中に着る長袖ポロシャツはたったの1枚、ボタンダウンのYシャツは3枚、セーターは2枚・・・・。
(気に入った高価なセーター類は殆どの場合、繊維素材で洗い分ける洗濯方法を結婚以来20年、少しも理解しようとしないので、何でもカンデモギュンギュン廻しちゃう)
・・・・・・でさァ、・・・・中に着るもんが少ないんだけど、箪笥がパンパン・・。
全然、真新しいコート7着目。




ありがとナ。毎年。一生懸命、着替えるよ!ジャケットだけ!

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そのおたんじょーびの週はわたしの仕事は日勤であったので、我がプリンセスを



それでも、カノジョは何の意図も無さそーに毎夜、ソノ日一日の会社内の出来事を、あーだ、こーだと聞かせてくれた。
「あー、忘れてんだ、たんじょーび」・・、20ネン繰り返しスリャ、そーだよね・・。」

一方、






バルーンで83と書いてある、会場設営中のスナップ。
笑顔のヒトがお母さん。一男五女を立派に産み育てた。
我がカミサンと島根県に住む姉さんの二人が、この家族を数十年に渡り経済的に支え続け、各々家庭を設けその孫たちは次々と進学・就職し、続々と羨望のスタートを切っている。
今まさに




上の看板もびっくりだが、パーティの来客用招待状、テーブル、屋外テント、音響装置、設営から料理のケータリングに至る迄全て業者に任せたらしい。


この誕生会の招待客は200人


俺なんか、誰か呼んだって20人も集められない。






自分の誕生日でも無いのに、嬉しくて昼過ぎから飲みすぎてコノ一枚。

準備中から姪っ子がノートPCのカメラでその様子を延々、

会場内の何気ない喧騒や食器とフォークの擦れる音に臨場感満点の時間を現地と共有デキタ・・・。


来客は、気が向けばノートPCに話し掛けて、日本のカミサンと会話を楽しんだ。
アリガタイ時代になったもんだ。
テクノロジーの進歩に感謝・・。

カミサンの国では、特にプレゼントのやりとりなど無く、呼ばれた客はただ、ただ集って食べるだけらしい。
ところで我が生涯のプレゼントで思い出に残るのは、何か?と考えたのだが、異性から貰ったモノではナクテ、テレビ朝日グループの製作技術会社に在籍当時、会社のコーポレート・アイデンティティ新設を兼ねたお披露目パーティーで、もう既にお亡くなりになられた社長から、表彰商品で頂いた携帯CDプレーヤーと、東京・銀座は由緒ある文具店「伊東屋」で2万円ほどした高級システム手帳だろう。

「世界のSONY」が肩で風切ってた時代・・・。
コノプレーヤー、チョッと揺すると音が飛びまくった・・・・。

http://www.sony.co.jp/Fun/design/history/product/1980/d-50.html
もはや手元には無いが、システム手帳の方は、その後のディレクター人生を過す間、かなり長い期間、大切に大切に使った。こちらも合成皮革製の英和辞典くらいの大きさのズッシリとしたもので、電卓からポストイット、折畳みの世界地図、等様々な気の利いた帳票がビッシリ詰まってた・・・・。
ズッシリ・ビッシリ。
さて、ココまで書いてきてなんだが、11月のわたしの誕生日の週末を越えた月曜日、会社で勤務中、落ち着きを失った様子のカミサンに会社の数人の同僚が、どうしたの?と尋ねて来たらしい。
「ナニカ、ワスレテルンダ、ワタシ・・、ナンダカ、ワッカンナイケド・・、ジュウイチガツ、オカアサンノタンジョービ・・・。」

「ゴメナサーイ!!」(ごめん、では無い)


カミサンは、毎年、



中に着る長袖ポロシャツはたったの1枚、ボタンダウンのYシャツは3枚、セーターは2枚・・・・。
(気に入った高価なセーター類は殆どの場合、繊維素材で洗い分ける洗濯方法を結婚以来20年、少しも理解しようとしないので、何でもカンデモギュンギュン廻しちゃう)
・・・・・・でさァ、・・・・中に着るもんが少ないんだけど、箪笥がパンパン・・。
全然、真新しいコート7着目。




ありがとナ。毎年。一生懸命、着替えるよ!ジャケットだけ!

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余りに、余りに短い“桜花(おうか)爛漫の時”・・。


今年、わたしの住む地方は、土日の休みの度に


僅か10日ばかりで歌手であり、女優であった「清水由貴子」さんの命日がやって来る・・。


進行胃ガンで亡くなられた故「逸見政孝」さんと共に、21年程前、わたしとカミサンの結婚披露宴の発起人としてお祝い戴いた「ユッコさん」・・・。


この時期、「日本さくら名所100選」に選ばれた、こんなに素晴らしい景色の静岡県駿東郡の広大な墓苑で、遺体となって発見された・・。


父の眠る墓前で、ビニール袋内に市販洗剤の混合液を作り、硫化水素を発生させ吸引し、亡くなった。
前々日から行動を共にした目・足、そしてお体の病弱なお母様は、彼女の傍らで小雨の降る10度前後の気温の中、車椅子に座したまま、一昼夜・10時間程放置され、衰弱していた。


1976年(昭和51年)新人歌手選考会で、あの「ピンクレディー」を抜き1位で、レコード会社各社の圧倒的支持を受け優勝し、歌手デビュー。




明晰・着丈な彼女らしい母親役を演じ、足掛け6年もの間、出演契約の続いたコミカルな演出の乳酸菌飲料「ヤクルト」のTVCM。
気の毒に、彼女が本当の“家族・家庭”を持てば、正にこの通りの素晴らしい光景が日々、繕われた筈・・。

“自殺”の衝撃を知れば知るほどに、哀しい・・・・・・・・・・。


NHKはじめ民放ドラマに出演の盛りの頃のテレビ朝日「徹子の部屋」。
小学校3年生の時、実父が亡くなられ、病弱なお母様のもと8歳年下の妹と共に、生活保護を受け奨学生として高校に進学。
「芸能界に入れば、きっと美味しいものが食べられる、お金もたくさん貰える」。

「ユッコさん」はわたしよりひとつ年上。
わたしにも彼女同様に9歳年下の妹がいる。わたしの母が38歳の若さで亡くなった年に、彼女はデビュー。


やがて、“夢”は叶った。
子供の頃から念願の“マイホーム”(推定時価1億円)を25年ローンで購入。
十数年ぶりに大阪・朝日放送の情報番組で「ユッコさん」と“再会”し京都ロケをご一緒した・・・。
おぼろげながら、京野菜の産地を旅するテーマーで、現場では人一倍テンションが高くスケジュールはタイトだったが、楽しい撮影となった。

企画立案から完成VTRの放送局納品マデ、たったの1ヶ月しか猶予が無いのが慣例の番組制作に“疲弊”していたわたしは、大ベテランの部類に入るリポーターぶりに安心しきってしまい、当時脂の乗った彼女にしてみれば、もの足りなかったようで、現場で直接ハッパをカケラレタ・・。
驚いた事に住宅ローンは、そんな持ち前の“勢い”で債務を繰り上げ返済し、およそ10年で完済してしまった・・・。
この多忙な最中に、わたしの結婚披露宴の発起人を勤めて下さったのだった。


1977年(昭和52年)デビューのこの3人は「フレッシュ三人娘」と称し当時の芸能紙面を飾った。
画面左「榊原郁恵」氏は今尚ご主人と共にご活躍中。
センターの「高田みづえ」氏は相撲部屋夫人。
「ユッコさん」のみが、不遇にも伴侶との出会い無く、母親の介護に専念すべく、長年の芸能生活に自ら終止符を打ち、死の前年に芸能界を“引退”した・・。
そして、誰にも打ち明けられぬ、葛藤と闇と苦悩を抱えたまま、桜咲くこの季節に、父の墓前で息絶えた・・・・。
なにも死ぬ事はなかったのに・・。
わたしは、と云えば、結婚前後当時の“超多忙を理由”に、東京の披露宴での御礼もろくに言えず、失礼申し上げたままだ。
今更・・、いまさらだが・・、どーにか、成らなかったのだろうか・・・。
誰か・・・。




「国際結婚部門」たまに3位くらい、「寂しいオヤジ部門」10位前後





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