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転覆。

サラリーマン生活が転覆してしまった・・。

判っていた事とはいえ、去年の秋の誕生日の予感は的中した訳だ・・。
3ヶ月連続で手取り額が10万円を切った・・。
週休1日で生活保護支給額を下回るのだ。

これでは生活が成り立たないのは当然だ・・。
異動になった勤務地までの往復50kmのガソリン代が殆んど支給されず、通勤赤字状態・・。
ご迷惑をお掛けするのは承知だが、ここは撤退するしか、手は無い・・。
毎月の給与明細を見て家内の具合は徐々に悪化していくのが判った・・・。
これ以上家族を犠牲に出来ない・・。


NHKニュース「おはよう!日本」の中に「まちかど情報室」というのが在る。
グラフィックス鹿島アナ1
(テレビ画面より)

NHKの番組の中でもこれほどコーナー題名と企画内容が不均衡なのは皆無であろう・・。
市井の出来事や行政の試みを伝えるのなら、このタイトルも相応しいのだが、扱う毎日の情報は全てが「商品紹介」なのだ。200%中堅スーパーの催事場や東急不動産傘下の「東急ハンズ」で販売されるような商品ばかり。

しかも番組ホームページには商品紹介と販売企業へのリンクまで、ご丁寧に貼ってある・・。

その新商品を偶然、現役で使っているとされる登場人物は、NHK各放送局単位で取材構成させ、日本全国から情報収集したようなスタイルに描いているものの、偶然ににも美男・美女ばかりで、偶然にも、育児中の家庭なら堅牢な建売住宅住まい、独身なら、偶然にも清潔なフローリング・ワンルーム住まい、サラリーマン・OLなら偶然にも相当に築年数の浅い、整理整頓の行き届いたオフィスしか描写されない。

日本の朝にNHKが描く、「アイデア商品」を使用している家族・人物は容姿美形で且つ中流の暮らしをしていなければならない、というスタッフ・ルームの「フィルター」で創り込んでしまっているのだ。

ヤラセすれすれ。中流世帯相手の「商品プロモーション」の何処が「まちかど」なのか

※関連記事が5月31日、8月16日、9月15日にございます!是非、ご覧下さい!

グラフィックス鹿島アナ2http://www.nhk.or.jp/ohayou/

表題の転覆で思うのは、このコーナーに仕切り役で登場する「鹿島綾乃」アナウンサー。
毎朝、コーナー冒頭で彼女が紹介商品のタイトルに引っ掛けて、メインキャスターに対し謎掛け風に切り出すのがパターンだが、これが全く「爽やかさゼロ」ヨロシクナイ・・・。

何処と無く厭味っぽく、嫉妬深く、常にメインキャスターを茶化す、あわよくば、生放送中に相手を立ち往生、転覆させようかオーラ全開なのだ・・。人柄が誤解されてしまう。(昔のキャスター、江崎史恵さんの頃から、噛み合わなさ全開!)
立ち位置がヘンだ。
グラフィックス鹿島アナ3
(テレビ画面より)
この番組もご多分に漏れずホームページをたちあげている。
20名近く在籍するアナウンサーやリポーター達が持ち回りで、出演者ブログを書いているが、彼女の執筆するブログだけは、絶対、自身がブログ画像に登場しない・・・。

理由はここでは書かない・・。
卑屈そうに見えてしまう「ひと言」よりNHKの朝に相応しい「人柄オーラ」で勝負して欲しいものだ・・。
こう思うのは、わたしのみでは無いと思う・・・。

ソレはソレ。コレはコレ。



スカパーの無料放送期間中、「ヒストリーチャンネル」自衛隊観艦式2012~海自創設60年の航跡~を一部拝見した。「ヒストリーチャンネル」はアメリカ合衆国のケーブルテレビ番組供給会社。
グラフィックスヒストリーチャンネル
http://www.historychannel.co.jp/
海上自衛隊創設60周年の昨年、最高指揮官(内閣総理大臣)が艦隊を観閲する、3年に1度の相模湾洋上で行われる大規模な式典のドキュメンタリー。
グラフィックス観艦式1
(テレビ画面より)

報道局取材部に在籍当時、当時の自民党の加藤紘一氏が昭和59年(1984年)、第2次中曽根改造内閣で防衛庁長官に任命された時と記憶するがこの相模湾での観艦式、埼玉・朝霞駐屯地での観閲式に同行させていただいた事を思い出した。
護衛艦の艦内で調製したという特製のお赤飯弁当がわたしたちにも提供され、その出来栄えに驚かされたが、度肝を抜いたのは、海の上での「情景」。
グラフィックス観艦式2
(テレビ画面より)
戦争映画でしか目にしたことの無い、それはそれは、そこに居なければその凄さが、伝わらない迫力の連続・・。
前方は元より、遥か彼方にまで軍艦が隊列成して連なる真横を、哨戒機や武装ヘリが低空で飛びぬけ、中でも頂点は護衛艦のすぐ脇を真っ黒な潜水艦が鼻先から、けたましい波音とともに急浮上して来た場面・・。

この壮大な光景は30数年経っても、脳裏に焼きついて離れない。

転覆知らずの護衛艦。
わたしの人生も含めてもう一度乗りたいものだ・・。





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ばかおとこの道標・・。

整理する。

わたしは自身の過去とその生い立ち、通ってきた道のさまざまなエピソードを書き残したかった・・。
最愛の家族の事、身の回りの出来事を、出来る限り、時系列を完結に整理しながら曝け出して、この先へ進む・・。

昨年秋、以前の勤め先で上級役員からパワーハラスメントがあった・・。
自分が信じていた信念(勤務先も推奨していた)を否定されたので、その過程をブログに記した・・。
書いた事実をSNSを通して、昔からお世話に成っている別の上級役員に知らせた・・。

わたしへの聴取は無く、その役員は一定の処分を即日受けた、らしい・・。

1週間を空けず次の週末、勤め先のチグハグな現象をこのブログに書いた・・。


その週末の土曜日今度は別の上級役員が、わたしの勤める会社の上司を拠点ビルに呼び出し、その記事について、自分の社への侮辱だ、法的な措置をも検討する、と匂わせ圧力をかけた、らしい・・・。

明けて月曜日の朝、その上司はわたしのもとへ来て、ブログの即刻削除を求め、同時に自宅待機を命じた・・。


整理する。

わたしの所属先、および請負先の社名、所属部署名、個人名、企業秘密に関わる件については、当該ブログの中では触れていない・・。ブログ右上画面の顔画像のみが「リアル」である。
これで「法的な措置」をどう検証し、わたし個人の「民法上の有罪」をどう「立証」するのだろう・・。

2011年度調査の国内ブログ総数890万件以上の中で、個人名・法人名を明かさない、誰しもが描く、職場の雑感記事が、名誉毀損や誹謗中傷に当たるとは、そんな「判例」が在るならば拝見したい。誠にお粗末な「議論誘導」である。

その後は、取引先会社間でSNSの類いを利用してのあらゆる情報表現を禁ずる趣旨の「誓約書」を勤務者に書かせる事で、上層部と現場は事態を収束させようとした。

誠実に8年以上勤めてきて、ここへ来て、この歳で「解雇」は勘弁してくれ、とわたしの会社の責任者に食い下がった結果、自社が運営する勤務先へ、現在の時給のまま異動を命じられた・・。

元居た職場の一部のモノが「何で会社に迷惑を掛けたのに給料が上がるのはオカシイ」と突き上げた。
何故なら、異動した先の職場は繁忙期、元居た職場は閑散期であったからだ・・。

ところが繁忙期ナドといっても、数日間作業量にピークがあるのみ(残業には全くならない)・・、要は「雇う側」が騒ぐホド新しい職場なら給料が上がるナドとは発言者の憶測であり、迷惑な話であったのだ。

元居た職場なら月単位で1日3時間、4時間毎夜あたりまえに残業量が増えるので、手取感からして桁が違う。

有給休暇を採り運転免許を取得し、自家用車も通勤の為に購入した・・。


整理する。

異動先の職場から給与の〆と支払いも含めた、勤務条件の説明・交付の一切が無かった・・。不安なまま年を越した・・。
給与明細を見て「不審」に思った・・。昨年12月、今年1月、2月、基本給も交通費支給額も著しく引き下げになっていた・・。予告無き、説明無き85%以下の引き下げである。上司はわたしならば、立場を弁え、暫らく我慢すると考えたのであろう・・。


最後に。

その筋の労働争議の専門家等を介入させ、徒党引き連れて、ハンドスピーカーで会社の前に立ち、寒風吹きすさぶ中、「不当だ」「争議だ」「全面対決だ」とアジるつもりも毛頭無い。
世界的大企業の運営役員の体面と派閥闘争もあるだろう、今回は極めて「小さな牌」の中で、何の「透明性」も無きまま、わたしの人生が、少し、「翻弄」されてしまった・・。SNSに投稿した「身辺の出来事」が曲解され、上級役員に因縁をつけられ、ブログ削除を命ぜられ、自主的に職場でお世話になる多くの方々とのSNSの交流から撤収し、わたし個人は、自ら、大赤字勤務の職場を去るのだ。

わたしの「筋」が悪かったら、もっと事態は「公」になり悪化しただろうに、わたしの元上司を呼びつけた役員は、どうするつもりだったのだろう・・。これこそ、オタクらの唱えるコンプライアンスに反するではないか・・。
グラフィックス最後1
遅ればせながら、職場のお世話になったみなさま、長いあいだ、本当にありがとうございました。
今後、この件は2度とこのブログでは触れない・・。ご安心を

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複雑な1位です・・。

にほんブログ村ランキング テレビ・プロデューサー&ディレクター部門で久しぶりに、1位を戴きました・・。
複雑な心境であります。

http://tv.blogmura.com/tv_producer/ranking_out.html

http://tv.blogmura.com/tv_producer/index.html

おいで戴いたみなさま、ありがとうございます!!

グラフィックスランキング1位
http://www.ipa.go.jp/

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MOONラビットの花束。

今週の火曜よる、久しぶりに懐かしい「お顔」を拝見した・・。
「高原 兄」氏。
グラフィックスアラジン1
(テレビ画面より)
関東の「千葉テレビ放送」で『情報バラエティ・MOONラビット』を担当した当時、大変お世話に成った・・。

以前、当ブログで再三触れたがTDLに『Star Tours』が登場し東京ベイに「ジュリアナ」がオープン、銀行のお金が町中に溢れた昭和バブル経済の真っただ中・・。

フォーマルウエアの社団法人が持て余した資金の一部を「電通」を通して、恒常的に厳しい経営環境にある「県域UHF局」に番組製作で資金提供し、わたしが在籍した会社が「おつきあい」で引き受けた・・。

受注金額が月額160万円余りと、あまりに安く、テナントビルに入居するだけの制作会社では、撮影機材費やら技術スタッフ費用、仕上げに掛かるVTR編集諸費用などの経費捻出が不可能であった・・。
1クール分制作しても500万円を下回り、おまけに「生放送」の為、毎週千葉県まで出向かなくてはならないのだ。
「電通参事」は口にしなかったが、制作会社の「選定」には紆余曲折が在った筈である。


「つきあい」で引き受け、テレビカメラや編集スタジオを自社で所有し諸経費を(曖昧なる)グロス計算で処理し、更に制作スタッフの遣り繰りが就くカイシャ⇒わたしの居たカイシャ。

わたしの直属の上司は「長期間、安い仕事」にスタッフを丸抱えで捕られる「受注」に強い難色を示した。
当然のコトである・・。
一方で、わたしはといえば、継続的に自分の制作したものが、毎週、ナマ放送で、電波する・・。

小学生の卒業文集に描いた「夢」が現実となる「チャンス」
渋るチーフプロデューサーを尻目に、この番組製作の合間に他社の業務も平行して「受けこなす」コトを前提条件に(実際は半年間で1本しかコナセナカッタ)社長と話をつけ、制作補4名をシフト制で迎え番組を立ち上げた・・。

月曜よる7時から1時間のナマ放送。全篇VTR番組ではナイ分、撮影取材や仕上げの編集作業の経費は削れる。
しかしながら、週あたり40万円しか無い予算からの高額な出演料捻出は厳しく、「少人数」で「スタジオ」の空気を盛り上げる番組進行が「必須課題」・・。

そこで「白羽の矢」だったのが「高原」氏であった・・。

当時、名古屋テレビ『オジャマンないと』(昭和59年・1984年~)なる民間放送連盟賞優秀賞を受賞した深夜番組にメインとして出演中で、「太平サブロー」氏と共演の『尾行大作戦』と題する放送回のサンプルVHSを拝見し即決した・・。

グラフィックスアラジン3
(テレビ画面より)
「高原」氏の起用は「大成功」で、1クールで終える筈の番組を3クール延長した・。

この「改編」にあたり企画立ち上げ当初から、局側のプロデューサーは、現在の番組枠でシンガーソングライターの「KAN」氏を起用し、洋楽POPSビデオを垂れ流す『テレジオ7』との類似性・維持を強く求めたが、わたしは頑なに「否定」してみせた・・。
理由は1980年代より既に、かなり先行して県域UHF局の「テレビ神奈川」が「ミュージック・トマト」のタイトルで、アメリカの「MTV」を模した月~金の「帯番組」を製作し、地元中高生に絶大な人気を収めていた背景と、実のところわたし自身、あまり「洋楽」に造詣が無かったからに他ならない・・。

今にして想えば、「電通参事」の作成した赤字確定の「番組企画書」にわたしが「踊らされず」にそうした模倣「垂れ流し番組」にもう少し「傾注」していれば、「体力・精神力」を維持しながら若干でも「売り上げ」を計上出来たのかも知れない・・。

レコード会社が持ち込むPVを大量に漫然と流し、数通の葉書・FAXの反応で番組進行・・、こんな造りには耐えられない・・。
誰にでも、何処の会社でも製作出来る・・。何も局外の製作会社に「外注」しなくとも局内で「従来通り」チマチマとやれば良いコトなのだ・・。
「参事」の企画書には低予算・低品質・低反応「UHF局・スパイラル」から「脱却」させる外連味も在った・・。

わたしは答えて見せた・・。開局以来1度も採用した事が無い、必要が無かった「タイムキーパー」」を東京から連れて行き、番組の「進行速度」を上げ、情報量を多岐に網羅し、局プロデューサーに懇願された「洋楽PVの紹介」は1回の放送で3曲以内・1曲あたりのオンエアは60秒に規定した・・。放って措いたら「フルコーラス最後まで、好きなだけ」流せと言い出すだろう・・。


『MOONラビット』4クール目の続投打診が局側からあった時点で、わたしは疲弊しきり降板した・・。これ以上会社に「迷惑」も掛けられない・・・。

最終日の放送終了後の夜、「千葉テレビ」局舎裏手の大きな「割烹」で局プロデューサー主催の「お別れ打ち上げ」が開催された・・。
「高原」氏他、「堀江 淳」氏、女性キャスターの「赤堀容子」氏、「高橋圭三プロ」の女性リポーター・マネージャー諸氏、「芸神集団アミューズ」の「エンジェルス」の皆さん、落語家「桂 竹丸」氏、局スタッフ、わたしの会社社長以下大勢の大宴会・・。

・・番組は4クール目に突入するが、わたしが降板するコトで「わたしの会社」、「高原」氏他「エンジェルス」等の面々の一切が撤収となり、移籍するプロデューサーとADのみが続投・・。
ビールも料理も味がしなかった・・・。


わたしの最後の「ご挨拶」も複雑なものに成った・・。


あまりの大勢の人数と駅繁華街からかなり遠い、千葉刑務所のある小高い丘上ゆえ、2次会に移動するも多数のタクシー送迎が必要で、おまけに2次会費用そのものなど、誰も捻出出来ない・・。
我が社の「社長」(作曲家・筒美京平」氏の従兄弟)も、しっかり「撤収」のつもりである・・。
「東京」は遠いのだった・・・。


三々五々、お後はご自由に・・、という「苦しい雰囲気」の中、闇深い「割烹」の表にぞろぞろ向かう・・。

提灯明かりの玄関先で「高原 兄」氏が傍に立つ「堀江 淳」氏に人知れずつぶやいた・・。
彼の声はよーく通るのだ・・、「歌手」だもん・・。


「フツー、こういう時、花束くらい在るよなァ・・。」


「高原」氏は何事も無かったように声を掛けて来た。「ハタノちゃん飲みにイクヨ
「花束」のコトも気まずく、疲れきっていたわたしは、まるで逃げるように現場を後にした・・。

グラフィックスアラジン2
(テレビ画面より)
「スンマセン、兄ィ・・。」
もう、沢山稼いだみたいだし、許してね・・。
今度遇ったらご馳走してクダサイ・・。


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ばったり、出くわす。

すっかり、過ごし易い陽気の今日朝、ハローワークの玄関先で、「コンニチハ!」
突然大きな声で呼び止められた・・。
そこには黒のスキニーパンツとカットソー、つばの長めのメッシュキャップを斜めに被った目鼻立ちのクッキリした爽やかな男性が居た・・。
グラフィックス玄関4
「シゴト」の神様がおいでになる「ハロワ」ロビー(市内にて)

「判ります?」

「?・・・。」

およそ普段の今のわたしには、関わりの無さそうな、まるで『EXILE』のダンスメンバーのようなヒトが目の前で微笑んでいらっしゃるのだ・・。

「・・何でココに居るンすか?」矢継ぎ早の問いに、慌てて記憶の糸を辿った。

以前の勤め先でよく顔を遇わせた、自動車部品メーカー「東海理化」の大型トラックのドライバーだった・・。

1日数百便の4トン10トン車が出入りしたその現場では、大勢のドライバーと知り合いに成った。
「暑いねェ、寒いねェ」に始まって景気のコト、荷量の動向、家族のコト・・、「事故して手首折れちゃった!」「同僚が荷台からジャンプして骨折したんだ・・・。」

互いに忙しい作業の合間の僅かな時間に、通り一遍の「言葉」を交わしあった。
他の現場、他の会社に転属になる、と言っては、お別れの挨拶にわざわざ見えたり、「世話に成った」とお土産を戴くコトも在った・・。
グラフィックス玄関1
自動車部品を続々、運搬する10㌧車(市内にて)

しかし、みんな・・、みんな誰一人お互いの「名前」は知らない。

毎日、毎時、必ず同じタイミングで、同じ商品を、同じ「人」がフォークリフトで持って現れる・・・。

笑顔で挨拶を交わす・・・、が、相手も自分も「何処の誰さん」かは名乗る機会が無いのだ・・。

何年も、何人も・・。


「コノお莫迦、名のりゃイイじゃん」、というご指摘もあろうが、「分単位」で大型車を転がすドライバー達ひとりひとりに、『お疲れサンです!お名前は?』を繰り返して、相手の氏名を探るのはしんどい行為だ・・。

しかしなァ、生まれと所属会社名と家族背景マデお互い判って話しているのに、肝心の「名前」が判らないとはナァ・・・。



テレビや舞台の世界では、この様に何年もの間、「仕事」でお付き合いするのに、「相手」の名前が判らず延々一緒するナド、到底考えられなかった・・。
それが、使用される側もの同士であろうと、スタッフ一覧表やら台本上やらに氏名記載が必ず在り、現場でもスタッフ紹介が在ったものだ・・。

演出助手の頃、ロケの予算と規模が大きくなれば成るほど、多くのスタッフの名前や所属を把握していないと、話が頓珍漢になる・・。

事前のチーフクラスとの下打ち合わせ会議を終え、撮影日当日になると、途端に初対面の助手スタッフが4~5倍に増えて行く・・。
グラフィックス玄関2
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/index.html
屋外ロケ、スタジオ収録を問わず、適切に順序良く、声を掛け案内進行する必要が在る訳だ・・。
顔と名前と所属会社とその役割を認識しながら、予定に沿って効率良く「最高の撮影環境」を提供する。

演出助手としての「影の腕」の見せ所だ・・。
うぬぼれデハナク、これで随分と気に入られ、多くの演出監督の方に「ウチに来ないか?」とお誘いを受けた。


うぬぼれて、転職を繰り返し、子供の頃の「夢」が叶い、給料の手取がどんどん増え、父親にロクに家賃も入れず、貯金もせず、贅沢をな遊興・飲食をし、親兄弟・一部の親戚が傾注していた「新興宗教」に1円の寄付もせずやんわり拒み、当時東京・新宿は歌舞伎町「コマスタジアム」近くの一番大きなクラブに居た「カミサン」と知り合い、その新宿で披露パーティーを開き、外国の教会で挙式をあげ、今は「お仏壇」では無く、「イエスキリスト」がおいでになる・・。
グラフィックス玄関3



わたしはカイシャに「キリスト」られて・・。


それでも「真面目に」生きている・・。・・アーメン。



あ、「東海理化」の元運転手『EXILE』クン・・。今度遇ったら「名前」聞かなきゃ・・。

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牛皿回顧録。

「早い!安い!旨い!」
久しぶりに近所の牛丼の「吉野家」で昼食を取った。
お目当ては「牛皿」の大盛りと並みご飯、ごぼうサラダ。

牛皿に少しのお醤油を垂らし、カウンターの一味ふりかけを軽く一振り・・。

ヨダレがでてしまう・・。
グラフィックスあさいち牛皿

しかしながら店舗メニューにはいくら裏表を見回しても「牛皿」の記載が無い・・。
第一、昔から掛かっていた筈の壁掛けの「筆入れ木製札」も無い・・。

気の小さいワタシは、仕方なく「並とAセット」を注文した・・。


注文を終え改めて店内を見回してみる・・。

カウンター先のステンレス製のショーケース内が空だ・・。以前は特製の「お新香」が並んでいた・・・。

今にして想えば、甘辛味の牛飯に果たしてあの塩がキツメの「お新香」がマッチしていたのか疑問だ。
なのにあのショーケースに並ぶサマを見るとつい、手を出したものだ・・。

グラフィックスあさいち牛皿3
http://www.yoshinoya.com/about/new_style/index.html
公式ホームページでは家族連れや女性を意識して、清潔な店舗運営を一部謳っているが、実際にはほど遠い・・。

「日本マクドナルド」や「松屋フーズ」、「ゼンショー」のように店舗改装の資金余力が無く、相変わらず、「蛍光灯照明で薄暗く」「カウンターはくすんで汚い」のだ。「箸箱」や「紅しょうが壺」は手垢や汁ダレで汚れたまま放置。

掲示物の類いは殆んど整理され過ぎて、ほんとうに築地魚河岸の第一号店と客層に大差なく、工事関係の職人と外勤営業の御用達同然・・・。
厨房設備を除けば、夜逃げスタンバイOK!のムード満点だ・・・。

グラフィックスあさいち牛皿2
グラフィックスあさいち牛皿4
創業明治32年、上のテレビCMはわたしが中学生の頃のものと記憶している・・。


「吉野家」で必ず思い出すある「光景」がある・・。


国立文化財研究所の元所長で文学博士に「三隅治雄」先生という方がいらっしゃる。
わたしが在籍した「舞踊団」のご縁で、アフリカに視察にお出掛けになるといっては、成田空港にお見送りに行ったり、國學院大學での「聴講」にお招き戴いたりしていた・・。

現在の甲州街道と山の手通りがぶつかる交差点、東京・新国立劇場の向かいにその「舞踊団」の稽古場が在り、道の向かい側に当時かなりの坪数の広さの「吉野家」が在った・・。

テレビ出演や地方取材の多忙な合間を縫って、「先生」は「舞踊団」の「稽古」に立ち会った。
くだんのCMがテレビで放映され始めて、余程気になったのであろう、「先生」は「あの吉野家の牛丼を食べてみたい」と仰った・・。

お世話する係りの者がやんわり「反対」して他の出前を薦めたが、頑なに「召し上がる」と云う・・。
仕方なく、わたしが牛丼弁当(当時可能だったのか生玉子も)を買いに走った・・。

「先生」は食べ終えて満足そうに、熱い日本茶をすすった・・。その手には当時100万円した日本初の、国産デジタル時計が鈍い金色に光り輝いていた・・。




朝の連続テレビ小説の直後から、放送を開始するNHK「あさイチ」。
グラフィックスあさイチ1

本当によく出来ている。民放他局にはとても真似の出来ないきめ細かな「企画立案」「検証」、「データ放送」との自在なリンク・・。
グラフィックス朝イチ2

デイリーの朝ナマ番組で此れほどの「品質」を誇るのは、世界でも例が無いだろう。

番組連動のホームページも詳細で丁寧、「放送」というものが「人」の「生活」を側面から「文化的に、豊かに支援」できうる、ということをこの情報氾濫のご時世にきちんと「実証」している・・。

司会のお二人の「人柄」も抜群に功を奏している・・。

他人の「ゴシップ」や「飲食店食べ歩き」、「高級衣料品・宝飾店舗」の新規出店こそが「情報の定番であり王道」である、とその態様を「昭和」の頃より漫然と変えようとしない民間放送キー局一律の「思い込み」。
「少数」「弱者」を切り捨て、広告代理店「電通」に踊らされる「生活視点」こそ、現在のテレビ疲弊の源泉である・・。

「国営」の大規模な編成の製作陣容に叶うわけ無いダロ!莫迦!!と云われそうだが、果たしてそうであろうか?

国家中枢の首都東京で、生え抜きの東京人(と言っても東京は地方出身者の集まりだが)が製作するものを、地方は黙って受け止めて「流して」いれば済んだ時・・。

田中角栄元総理の人口100万人以下の小都市部でも「民間放送4チャンネル」を堅持させる配置政策により、番組製作能力の低い土地の、有力者の子弟で組織を固め、上級役員は東京から「派遣」し、こじんまりとした局舎を田舎国道郊外に建設し・・・。

そんな時代でも優秀な「放送人」が制作したのが、日本テレビ放送網の「ズームイン朝!」(1979年・昭和54年~2001年・平成13年)
グラフィックス朝イチ6

毎日・毎朝、全国の系列局が中継車を出動させ、それはもう、必死で創り上げた・・・。
東京・麹町の「日本テレビ」展示室を約4億円掛けて改装した「マイスタジオ」。
日本初のスタジオと副調整室を壁で仕切らずにスタジオ背景とする「演出」が大好きであった。

通信衛星を使用したお仕事で、その「マイスタジオ」で映像スイッチャーを勤める「Mさん」、音声ミキサーの「Oさん」らと長くご一緒したが、早朝の「番組運営」のサマは、傍から見て「壮絶」に見えた。

深夜から早朝にかけて勤務し、さらに他の「日中」の放送業務もこなさなくてはならず、「健康」の維持と「睡眠不足」との日常的な葛藤・・。

一時在籍した技術制作会社「C」社も「ワンポイント英会話」のナマ中業務継を担当していた。
業務開始当初は東京の「放送専門学校」の「超」中古テレビ中継車を払い下げて貰い、中継に従事した・・。

九州出張でご一緒した福岡のとある映像技術会社「F」の方と、接待でお食事をご一緒する機会があった。

1千万円する「放送用テレビカメラ」を始めて導入し、最初は「ブライダルビデオ」やら「日本舞踊」の発表会の収録業務からスタートしたが、その「カメラ」購入がキッカケで「ズームイン」の業務依頼が始まった、という・・。


皆、「チャンス」を掴み「必死」で生きてゆくのだ。


わたしも「チャンス」を掴まなければ・・、ここで「落ちる」訳にはゆかないのだ・・。

「早かった(ダメになるのが)安かった(人間が)不味かった(人生が)」


それにしても「吉野家」の「凋落ムード」感は、どうなのだろう・・。


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越え行く、時。

恒例の「スカパー!」無料放送月間がスタートした・・。

時代劇チャンネルで「素浪人 花山大吉」(1969年・昭和44年1月~1970年12月)を40年ぶりに観る事が出来た。
わたしが小学生の頃の作品。制作は「NET」と「東映京都テレビプロ」。
グラフィックス素浪人1
(テレビ画面より)
「NET」はテレビ朝日の前身、「日本教育テレビ」の英文社名通称。創立時の免許交付の条件は教育番組を50%以上、教養番組を30%以上をオンエアする事が前提であった。
わたしが在職中に、報道取材部の機材庫に「NET朝日」の名称が記載された廃棄機材が在った。

この番組の前作「素浪人 月影兵庫」は弥次喜多珍道中さながらの「コミカル路線」が人気を呼んだが、原作者の剣豪小説家・南條 範夫氏(故人)から「原作との乖離が甚だしい」とされ、急遽プロットはそのままにタイトルを変更し「続編」として製作した。

グラフィックス素浪人2
(テレビ画面より)
劇中の大半が、「故・近衛十四郎」氏演じる主役「「大吉」と「品川 隆二」氏演じる旅の相方「焼津の判次」のやりとりに終始する。
モノクロ作品ながら、ローアングルを多用した細かな「切返し」カットで軽妙な二人のやりとりを紡ぎ上げ、台本のト書き部分まで丁寧に描く。

グラフィックス素浪人4
(テレビ画面より)
テレビサイズの画角に飽き足らない、東映京都映画陣の遊び心溢れるカット。

グラフィックス素浪人3
(テレビ画面より)
画面右が「品川隆二」氏。
戦後のどさくさに紛れ、ゆすり・たかり、窃盗、ダフ屋、景品買い等の違法経済活動を行う不良グループの後、戸籍抄本に細工して「年齢詐称」し大学に入学、所属した「撮影所」子息の恋人を略奪した事から「不遇」を買い、転籍した「撮影所」では「労働組合活動」に傾注し「退社」。
当時、大人気であったコノ「当たり役」、ご本人は大嫌いだそうだ・・。

一方、画面左は「松方弘樹」氏の「お父上」。
第二次世界大戦でソ連軍が占領した満州で、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜として奴隷的強制労働の経験を持つ異色の猛烈な出演数を誇る「剣豪スター」。
苦労の割りに東映では二線級スターの扱いだった・・・・。
ソープランドやモーテルを経営しながら、晩節、糖尿病に苦しみながら荼毘に付す。

グラフィックス素浪人5
「父上」に「瓜二つ」の息子さん・・。(それにしても似過ぎだ)
名実共に、輝く「名声」は「親父」を越えたようだ・・。

想うに、わたしは、ワタクシめは、「父」を越えたのだろうか・・・。

「電気工学」に長け、「手先が器用」で、「美術造形」にも優れていた「父」・・・。
今、「非力」なわたしは、一体、「彼」から何を学んだのだろう
我が「死」を迎えるまでに、越えられるか
「父」のように「子」を二人、「世」に送り出し育ててはいない・・・。
既にこの時点で「アウト


比べるマデも無い、か・・・・。


もう、「無理」かも知れない・・・。
「無理」です・・・。


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30年目に明かせる真実。失脚の経緯①。

東京千代田区に「砂防会館」というホールがある。
グラフィックスタナカ1
Sabo Kaikan (2006.05.06).jpg

自民党最大派閥木曜クラブ事務所があり、「砂防会館」の名は当時の「田中角栄」氏の代名詞であった。
「ロッキード事件」では、主な現金授受の場所と認定された。

1982年・昭和57年わたしがまだ22歳当時、このブログで度々登場する『舞踊団』の公演が、ある日行われた。
関西を拠点にする「舞台演出家」を迎えての「ミュージカル作品」。

「浅利慶太」氏「日下武史」氏ら「劇壇四季」が、収益拡大とその先を目指し、新宿の空き地にテント劇場を仮設したのもこの年である。

『舞踊団の師匠』は「EXPO70大阪万博」や「都をどり」、「日劇」等日本の近代舞踊の「振付」をこなした方。
発足させた「舞踊団」を株式会社に格上げしたものの、年金・保険の加入は当時の情勢としても存在せず、元旦以外満足な休暇も無く、朝から終電車間際かそれ以降タクシーで帰宅する毎日。手取3万円。

38歳で急逝した母親の没後から5年、家に居れば家族の食事も洗濯もせねばならず精神的にはかなり「疲弊」していた、と思う・・。

関西の演出家A先生は、新宿新都心に程近い、シティホテルに舞台演出の制作期間中、連泊。
山の手通り沿いに在った稽古場にはタクシーで通った。

ホテルでの食事を取りながらの打合せ、お茶を飲みながらの打合せ、稽古場までのタクシー代、演出助手との食事代・・。全てわたしの自腹。(自腹というより間接的には我が家のサラリーマンの父が払っているようなもの)
「仮払い」はおろか「雑費経費」そのものを精算する「概念」が、誰にも無かった・・。

今、思い出すと腹が立つ。

制作陣は音楽作曲・制作、演出助手、構成脚本家、印刷物制作デザイナー・・・、皆、大阪制作。
それを、東京へ「持帰る」システム。皆、演出家A先生のブレーン。

オーケストラ編成の音楽録音では大阪のとあるレコーディングスタジオへ、単身出向いて立ち会った。新幹線の交通費以外、事務所は用意しなかった。移動・打合せ雑費全て、またもや「自腹」。
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MBS Senrioka Broadcasting Center.JPG

現地のコーディネーター(仮にB氏)は、逢わせたいヒトが居る、と何の関わりも無いのに、わたしを当時の大阪・千里の「毎日放送センター」へ連れて行き、ある音楽出版の重役に引き合わせた・・・。
今後、組む予定も何も無い・・。(自分が顔繋ぎしたいだけなのだ)

宿泊はB氏に阪急系の高級ホテルへ案内されたが、「そんな舞台予算は付いていないんですよ」とフロント・ロビーで丁重にお断りした・・。(宿泊費も自腹)

そのB氏の本業は「アド・コンサルタント」らしく、会社にも案内された。
演出家A先生はその会社の顧問も務める。
公演用のチラシ・・パンフ・チケットの印刷をB氏に請負ってもらう先生の指示。費用の振込先を知らされ、数週間後、指示通り支払を済ませた。

入金日の翌日、東京の事務所のわたしの元へ、B氏から猛烈な「クレーム」電話が入る。「印刷代をお支払い戴いていない様ですが!どうなってます?!」
狼狽・恐縮するわたしは、慌てて入金先の銀行へ問い合わせると、当時は丁寧に、「入金日に百科事典の引落に全額振り替え済みでございますが?」と言う。

あろうことか、B氏は個人名と法人名を連結させた口座に個人のクレジット契約金を意図して振り替えさせたのだ・・。
「作品」のマネージメントを預かる身としては『舞踊団の師匠』に経緯だけ説明し、「コト」をこれ以上荒立てぬ様にした・・。

東京・246号線沿いに「創価学会幹部」の経営する中華料理レストランがあり、その店舗駐車場のプレハブ小屋にA先生の取巻き、C氏が寝泊りしていた・・。
「ハタノ、チョット話が在るんやけど・・。」深夜タクシーで急ぎ向かうと、長髪のC氏が煙草を吸いながら待っていた。
A先生がな、当面の経費が足らん、と言わはってるんや・・・。」


何のことは無い。生活費の無心である。



仕方なく『舞踊団の師匠』にその旨伝えると、「普通、そういうお金はご自分で出すもんだけどねェ・。」と金庫から(領収証を切らずに)数十万円を取り出した。


ミュージカル公演で使用する「楽曲」は、わたし自身が「ステレオ音源」とするよう指示した。
「モノラル音源」と製作金額に差異は無いので、そう所望し、劇場ホールでも「ステレオ再生」を目指した。
これが、そもそもの間違いであった・・。
ホール既設の音響設備を利用する「発想」自体が欠如しており、音楽再生のオープンリールデッキから音声調整卓、PAスピーカーの全ての搬入設置を「外注」した。これも間違い・・。


通常のホール音響を賄う業務用機材は「舞踊団の自前」で充分揃えて在ったにも関わらず・・・。
22歳の小僧が、現場経験僅か6年あまりで、見得張って「トレーニングも積まない未知の機材」でオペレーションする・・・。(馬鹿まるだしである)


わたしはこのミュージカル作品の「舞台制作」と「舞台音響」の両方を担当した。


これが最大の間違い・・。22歳の小僧に両方は無理なのだ・・。
この歳になってみて振り返れば、それがどんなに「リスク」のあるコトかは容易に想像が付く。
子供の遊びや学芸会運営では無いのだ・・。フツー、片方で手一杯。

わたしを、その両の業務に配属したのは『件の師匠』ご自身なのだ。
数々の国際文化交流事業をこなし、文化庁芸術祭でも賞レースで優勝し、「スマイリー小原」氏も挨拶にみえるような「振付界の大御所」の「マネージメント」そのものの、失敗である。

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(2006/04/26)
スマイリー小原とスカイライナーズ

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東京・下北沢あたりの小劇場や公民館の催事とは内容も規模も訳が違う。


疲弊しきっていた・・。家でも、「舞踊団」でも。なによりも演出を始め大阪の取巻き連中の相手に数ヶ月、翻弄され続けた。

公演開催が迫ると、演出家A先生は東京・新宿の宿泊ホテルに作家のD氏を呼び寄せた。小太りでロン毛パーマで牛乳瓶底のような眼鏡を掛けた奇妙なヒト。(これでまた経費が増える)
ダンス指導の助手としてE氏も「稽古」に参加した・・。(これでまた経費が増える)
更には「ハタノが好きに使ってくれてイイヨ」と長身でギョロ目のF氏を不意に、あてがわれた・・・。(これでまた経費が増える)

大阪の演出家先生は「舞踊団」と演出契約をした訳だが、何の約定も交わさない中で、日ごとに自前のブレーンを呼び寄せてしまった。

「信越化学」なる何の脈略も無い合成化学企業からもG氏が「稽古場」に現れ、演出家A先生は「ハタノ、マイクスタンドでも何でも言えば作らせるヨ」等と、意味不明・頓珍漢に引き合わされ、22歳の小僧の混乱・狼狽に拍車を掛けた。


全てはわたしが「お相手」するのだ・・。


「砂防会館」ホールでの公演を翌日に控え、照明・大道具美術関係者も含め、前夜の稽古には熱が入った・・。
稽古中、演出プランの大幅な変更が在った。

このことに因り、演奏に使用する大阪でレコーディングした「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に、「Aロール」「Bロール」各々編集し直す必要が発生した・・。
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Open reel audio tape.jpg


「ハタノ、ワルイな・・。」最終稽古終わりに大阪弁で演出家先生は仰った。

「ハイ、ダイジョブです・・。」(全然、大丈夫では無い)


時計の針は夜10時を回った。これから明日のリハーサルに向けた準備だ。衣装・小道具・機材の積み込みの手伝い。大阪の取巻き連中を送り出したら真夜中に成った・・。
顔は冷たく、目だけが重く、朝から何も口にしていない、低血糖状態・・。(風呂も何日も入っていない)

傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。(22歳のわたしには彼の為に「仕事」を造る作業自体が猛烈にストレスだった)

「喰わなきゃ、倒れる・・。」鬱陶しい思いでF氏を仕方なく引き連れ、新宿・歌舞伎町にタクシーを走らせ、当時、まだ店舗の数少ない「松や」で食事を採り、再びタクシーで明け方の事務所に舞い戻った。(この金もF氏の食事もまた自腹、取巻きは一切自分では払う気が無い)

「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に編集し直す作業が残った・・。傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。ただ、居る。
(敢えて手伝わせるコトは何く、この「音編集」作業は素人さんには手伝いは無理)
音声機材を前に猛烈な睡魔が襲う。


外が薄っすら明るくなり始め遠くで、雀が囀りだした・・。


久々に「松や」の重厚でしっかりした食事を採った「カラダ」は休息を強烈に要求した・・・。
(この場で進めるべき作業機会をあっさり失った)
「仕方ない、ホールで作業するしか無い・・・。」タクシーを急ぎ拾い、F氏を連れ「砂防会館」へと向かう。


「嵐」が来た。


「制作担当」としてホール管理者に挨拶、各セクションの搬入作業者に挨拶、チラシ・パンフの準備、それと並行して音響機材のセッティング、瞬く間に「貴重な作業時間」が「高速」で消えてゆく・・・。
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「楽曲」の編集作業を始めると、途中さまざまに「声」が掛かる。
舞台効果で使用するドライアイスの業者が来たので「支払いをお願いします!」
「食事代金の精算をお願いします!」「何処へ置きますか?」「パンフは何処に降ろしたかしら?」

大阪の制作陣も順にやって来る、ひと言二言、挨拶を交わす。


リハーサルの時間が来た。


(ここで「ステレオ音源」での公演を諦めれば良かったのだ)
ステレオ再生可能な民生用テープデッキ×2台、SE等モノラル再生の放送業務用テープデッキ×3台。
大阪の演出家A先生に了承を求め、モノラルデッキで変則的に再生し、リハーサルを無事、終えた。

リハを終えても尚、制作雑務が残り、肝心な楽曲編集は「店晒し」になった。
(時計の観念の無い、子供な判断である)

「開場時間」と為り「客入れ」が始まる。

「客入れ」でスグ、「開演」時間。
舞台袖下に陣取った「音響席」で重苦しい「時間」が流れる。

編集作業は終わらない。(終わる訳も無い)

開演時間を大幅に過ぎ、一向に始まらない様子に客席が次第にざわつき始めた。
周囲を大勢に無言で囲まれた。(唾も出ない)


「アト、どれ位で終わるの?」


『舞踊団の師匠』はわたしを煽るでもなく、こう切り出した。
(見通しが正確に答えられる状況では無いが恐らく、適当に応えた)
マイク回線を1本空ける様わたしに指示すると、舞台の緞帳前で「挨拶と制作の経緯」をスピーチし始めた。


「発狂」しそうな状態で、「本番OK」を出せたのは開演予定を1時間半位は優に超えていた、と思う・・。(記憶が無い)


いよいよ、開演本ベルが鳴る・・・。舞台だけは何としても成功させなくてはならない。

わたしは、音楽再生用デッキのPLAYボタンを押し、音声卓の音量を上げた・・。
壮大な弦楽奏のオープニングテーマ曲が流れ(る筈であった)。


「無音」のまま、凍りついた如く、緞帳幕が開く。


「客席」はおろか、永田町の「会館」全体を「まっしろ」な空気が襲う。

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「楽曲」の再配置編集に気を盗られ過ぎ、ステレオ再生のケーブルを、リハーサルの時間に間に合わせで繋ぎ変えたまま、サウンドチェックの精神的余裕も無く、そのまま舞台監督に「GO!」を出し、再生してしまったのだ。


仮設の真っ暗な長机の下にの音声ケーブルが垂れ下がっていた・・・・。
(今でもこの光景は目に焼き付いている)

以下、次回更新。


06

18

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30年目に明かせる真実。失脚の経緯②。

流れる筈の「オープニング曲」が“深い闇”へと吸込まれ「ホール」に居た観客はもとより、オープニング出演者、他、舞台袖で待機中の出演者、全スタッフが皆、「凍りついた」であろう・・・。
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瞬間冷凍・・。  


30年を経て、今尚、わたしの「脳裏」に、その光景は常に「瞬間解凍」出来る状態に在る。
どんな時でも・・・。
「殺人」や「交通事故」の”記憶 ”を背負うかの如く、「つきまとう」。
当時、若干22歳、今、52歳・・・。

2台のステレオ再生オープンリールデッキ、3台のモノーラル再生オープンリールデッキ、1本のMC用マイク、3本の舞台音声を収音するノイズマイク、4波4本の主役級や「挿入歌」を歌うタレントに持たせる、個別周波数帯のワイヤレスマイク・・・。
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業務用音声調整卓には「検聴」あるいは「プリフェーダー・リスン」と云って眼前の調整卓まで「音声信号」が問題く届いているか、ヘッドフォンやモニタースピーカーで確認出来る回路が在る。

在籍した「舞踊団」の劇場音響業務から、殆どの都内大型ホテルでのコンベンション・サービスの催事音響、デビュー当時の松田聖子氏から他幾多のアイドル歌謡ショウ音響を足掛け7年、致命的な大きな「事故」無く、勤めて来た。(細かな出来事は次回)それなのにこの始末。
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「舞踊団の師匠」 (故人)の指示権は「絶対」で有る。
今更それについてトヤカク言及しない。

52歳・・・。

今のこの歳で、ひと通りの「社会経験」を積ませて戴いて思うならば、22歳のコドモ小僧にアレモコレモ、「不眠不休」で本人の「修行の為」にと「委ねる真似」は、わたしならば、絶対にしないであろうと云う事・・・。
それに尽きる・・・。


上演の舞台上では、「エンディング」に向けて若手の「仲間たち」が必死で「挽回」を「演じる」・・。
巻き戻す「針」は無い。
それでも「拍手」に包まれて「幕」は閉じたのだろう(記憶が無い)。
大幅に遅れた終演時間の為、大至急、撤収せねばならない。落胆している暇も「お詫び挨拶」に回る暇も無い。(他の事のように簡単に楽屋廻り出来る状況にも無い)

大阪の演出家A先生が「音響ブース」の見下ろせるデッキにやって来た。「澱んだ笑顔」が「こころ」に辛い。(スイマセンでした、位は言葉を交わしたと記憶する)その場の返答も記憶が無い。
大勢の撤収作業でごった返した筈だが、ここでも記憶は抜け落ちている。
唯一、覚えている光景が在る。

「砂防会館」ホールの真っ暗な駐車場での事。
機材の積み込みを終え、今度は「事務所」での積み降ろしの為に帰途に付こうとした時、東京・渋谷の「東横劇場」でも大変お世話に成った舞台照明チーフのT氏の運転するワゴン車が、わたしに近づいて来た。


「おつかれさまでしたァ!」折れた気持ちを奮い立たせるかのように、大きな声でご挨拶した・・。

メキッ!バーンッ!!わたしが足元に置いていたお気に入りの軽ジュラルミン製の私物入れトランクがワゴン車に轢かれ大きな音を立てた。
T氏はそのまま、素知らぬ顔で、クルマから降りるでも無くフルアクセルで暗闇の向こうへ走り去った・・・。(普段、とても温厚は方であったが、この時ばかりは、思い知れ!ってとこか)


おそらく、その日の深夜、 「舞踊団の師匠」に「お詫び」に行った。


 「寝たんだって?・・・。」 その言葉以外、どんな会話をしたのか覚えていない。
長身でギョロ目のF氏がチクったのだ)
「プロなら大事な時に寝るな!」ってところか・・・。


ボコボコに潰れたジュラルミントランクを両の手でしっかりと抱え、タクシーで夜中の自宅に帰った・・・。


これ以上関われない・・・。


中学入学と同時に踏み込んだ「舞台人生活」と「サヨナラ」する時が来た・・。
高校2年生の時に急逝した母に"死の前夜”「(舞台音響の世界で)一流に成れるよ!」と宣言して僅か5年・・。
わたしは22歳で、ひとつの「商業公演」を潰してしまった・・・。


数日後の夜、思いがけず、その「ミュージカル公演」で主役を務めたW君がわたしの自宅をわざわざ訪ねてくれた・・。
東京・阿佐ヶ谷の商店街の外れの狭い「お好み焼き屋」で、覚えたての「ビール」を飲み交わし、少し、話をした。信仰に根ざした、彼なりの「自信」に満ちた話であった・・。


これ以上関われない・・・。


「苦悶」し布団から出られなくなったわたしに代わり、「我が父」が自ら、2度と跨げなく成った「舞踊団の師匠」の元へ「退団」を願いに行った・・。


「辞める」と決めたら、少し「こころ」が軽くなる気がした。
「舞踊団の師匠」に「ご挨拶」する事無く、数日後の昼間、「事務所」に私物や自前の機材の一部を引き取りに行った。
山と積んだ荷物を玄関先で揃え、タクシーを待った・・。

「アナタハ、もう、ここの「ヒト」じゃ無いんだからね!」
創価学会の「金庫番」と週刊誌で騒がれた「N総務」のご長女が冷たく早く立ち去れ、とばかりにわたしを煽った。(精一杯の憎まれ愚痴なのだろう)
細身で、清楚で、色白で、グラマーな澄んだ栗毛色の彼女が、わたしは大好きだった・・。

わたしは「砂防会館」駐車場でトランクを轢き潰された時のように、またしても抵抗しようの無い「虚しさ」に打ちのめされた・・・。
レンガタイルの敷き詰められた稽古場玄関に、コの字型に敷かれた「スノコ」が飴色に輝いて居た・・・。



半年後、東京・六本木の映像制作会社に入社し長期「沖縄ロケ」の後、五反田の「ゆうぽうと簡易保険ホール」で開催された「舞踊団」の夏の新作公演を、真っ黒に日焼けした顔でフラリ、観に訪れた。(これも馬鹿まるだし)

生憎、舞台は殆ど終演近くで「フィナーレ」しか拝見出来なかった・・・。
公演の熱気覚めやらぬ楽屋出口に向かうと、「仲間たち」が口々にわたしの名を呼び、笑顔と歓声の中で小突き廻された。

突然、その中から笑顔の「師匠」が現れニコニコしながら、「マッタク、楽屋にくらい!挨拶に来るモンダヨ!」と「大きな手」でわたしのお尻を叩いた・・・。
その「夜」の五反田駅周辺は、とてもまばゆく「輝いて」見えた・・・。


いくつもの「夏」が過ぎ、わたしもテレビ朝日を経て、千葉テレビの情報生番組に携わる。


「小谷実可子」氏のシンクロスイミングの演奏曲を作曲する女性や、グラビアアイドル「小栗香」氏のマネージャなどに短編インタビューをするコーナーを設けたが、企画枯れから、「無作法」を承知で「舞踊団」で修行する、団員女性の「取材」を申し込んだ。(快諾を戴いたが、自分の立場が判っていない莫迦)

その番組が2クール目に突入し、「局舎」全体を利用した大掛かりな生中継を行った。

再び「師匠」にムリなお願いをして、「祭り中継」のゲストとして出演依頼をさせて戴いた・・・。

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寺尾聰、マーティン・スコセッシ 他

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当時、故・「黒澤 明」監督の映画「夢」の「振り付け」と「出演」の真っ最中で、超多忙につき「NGです!」と当時のマネージャー氏に一度は断られたが、 「師匠」ご自身が「出てあげなさい。」とご指示され、再びご足労下さった。

よる8時の生放送終了後、「黒澤プロダクション」が車両手配し、「舞踊団メンバー」をロケ地の富士山麓方面へ乗せ出発した。(申し訳無い気持ちでお見送りした)


幾年が過ぎ、やがてわたしが全国ネットの情報番組をいくつも担当するようになり、番組完成の度に「師匠」宛に番組宣伝の「番宣はがき」なるものを何度かお送りした・・。
18年前、結婚を機に「披露宴」のご案内のお便りを差し上げたらば、折り返し後輩で今や「舞踊団」の重鎮Tさん が、半端ではない厚みの「ご祝儀袋」を託されて、自宅に尋ねて見えた・・。


つい最近、その「師匠」が不覚にも突然、亡くなられたのを、かなり後でネット上の訃報サイトで知った。政財界・各国大使館関係者をはじめ多くの弔問を受けた・・。



丁寧なお礼を「微塵」も言えていないまま、時だけが無闇に流れ過ぎていつの間に「お別れ」となった・・・。
舞踊団のホームページに重ね重ね「非礼」をお詫びのつもりで、一筆お送りした(本来ならばお手紙を郵送すべきなのに)。


「師匠」先生亡き後、新代表を務めるH氏から、超多用な中を、又もや、ご丁寧なご挨拶の「お手紙」を頂戴してしまった・・。
これで、最早、一生、お詫びしつつ生きる他無い事を、更に自覚した・・。



長机下の垂れ下がったの音声信号ケーブル」2本は、「死ぬまで」背負うのだ。
グラフィックス最後5
http://www.cinematoday.jp/page/N0026556


ばかおとこの道標・・・・。



古い記事が、面白い、『ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生』

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07

13

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「下心」に物陰から「キュー」!

NHK BSプレミアム『にっぽん縦断 こころ旅』。
月~金毎朝と土日は総集編。わたしは週末“どっぷり観”するのが好きだ。

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(テレビ画面より)
俳優「火野正平」氏が「視聴者葉書き」をたよりに愛車"チャリオ"とともに人々の「こころに生きる風景」を訪ねて歩く、「紀行番組」。過去2年間で、36道府県3600kmを走る。

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(テレビ画面より)
撮影工程の殆どがサイクリング自転車の車上映像。
昔なら、ハンドルに括り付けたカメラでの移動撮影画を、高規格の放送用信号で取出し「全天候収録」なんて大変な「物量」と「調整」を要したであろう・・。(撮像管自体が振動に弱く、重く大きく、万一転倒したりしたら「始末書」もの)
カメラ調整や自転車修理の様子は番組HPでご覧戴ける・・。

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(テレビ画面より)
防振台に装着されたカメラでの「下り坂の滑走感」と「シャーーーッ」と風切る「チェーンのノイズ」がこの番組のみどころ

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(テレビ画面より)
わたしの世代だと、ロングヘアーのもっと「不安定」な趣きの「人物像」しか存知あげなかったものだが、「完全なる誤解」であったようだ・・。今月末、新作大作映画にも「東條秀樹」役で登場する。

ロケ中も、もっと制作スタッフを困らせながら、多少、狼狽させながら「旅」しているのかと思いきや・・。
さにあらず。

同局に『世界ふれあい街歩き』なる有名な新機軸の「旅番組」がある。
こちらは、通称「ステディカム」という、バネが仕込まれたアームを介して、腰で支える構造の装置で街中を「フワフワ」漂うが、ナレーションもあり、テロップもあり、観光としての情報枠もあり、現地の役者も登場してしまう・・。

グラフィックス火野5
(テレビ画面より)
番組中、無用なテロップや音楽もナレーションも無く、「グルメ」する訳でも無く、ひたすら「火野」氏の独白か、後続スタッフとのコミュニケーション会話のみで淡々と、休憩を挟みながら「目的地」目指す・・・。

『情報番組』から離れると、こんなにもいい意味で「ルーズ」に呼吸しながら「創れる」のだなァ・・・。
番組HPのブログとフォトアルバム、どちらも「旅情満点」で素晴らしい・・。
http://www.nhk.or.jp/kokorotabi/index.html

で、「呼吸」が噛み合わないのが『あまちゃん』の「アキ」。
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(テレビ画面より)
役者デビューのこの日、撮影現場でのNG、42回
グラフィックス火野3
(テレビ画面より)
「下積み」が全く無い「役者デビュー」。フツー在り得ないねェ・・。止まらぬNG連発の上に、ディレクターに怒鳴られまくり、現場で焦りまくるADクン。


東京・千代田区に「新霞ヶ関ビル」が竣工した当時、テナントに「NTT」が入居していた。
季節は今時分の7月。「デジタル・ビジネスホンαシリーズ」の商品プロモーションVTRの演出を担当した・・。
広大な新築オフィス・フロアーを土曜の全館休日に併せて「借り受け」た。

若き頃の「大島さと子」ソックリの中堅の「声優プロダクション」に所属した(自分好みの)タレントさん(お名前を忘れた)に「キャスター」役をお願いした・・。
グラフィックス火野30

ビルディング脇でのオープニング撮影に「美人キャスター」氏は「色鮮やかなオレンジ色のジャケット」を身に纏い颯爽と登場した・・。(綺麗だ・・・。)


夏場の早朝からのロケ故か、「美人キャスター」氏は少し「噛み気味」で、初っ端からNGを連発した。


「嫌な予感」がした・・・。綺麗なんだけどなァ・・。)


ナントか屋外部分を終了し、「NTT」の営業フロアに全員移った。
照明機材やカメラ用「移動車」をセットしてズラリ「ビジネスデスク上」に並んだ商品とエキストラさん達を交えての「美人キャスター」氏の「前フリ」シーン。

「じゃ、リハーサル行きましょう

「美人キャスター」氏の説明に併せて、忙しそうにエキストラさんも芝居を始め、カメラも彼女と共に「レール」移動する「トラック・ショット」収録。

先ほどの「屋外シーン」と同様、「美人キャスター」氏、「リハ」からどんどん「噛んだ」・・・・。

あれれ、手配した声優事務所のマネージャーから聴いた印象と違うなァ・・、下手だなァ・・。)

当時、「カメラテスト」を経ずに、「宣伝パンフ」のプロフィールと彼女の「ボイスサンプルカセットテープ」のみで「審査」し、「スポンサー」側に「了解」を取り付けてしまった・・。
大きな「瞳」、透き通った「髪」、「スーツ姿」がキマル「理知的」」なタレントさんであった・・。
綺麗だもんナァ・・。)

その「手抜き審査」は、しっかり「撮影現場」で裏目に出た、出ちゃった・・。

全館休館日により、恐ろしいコトに「ビル空調」は「全館停止」。
バリバリの新築高層ビルで物凄く「気密性」が高い・・。照明も多用しているので、「室温」はあっという間に急上昇
「美人キャスター」氏も、額に汗が噴出し、休憩を挟んだ・・。
スタッフの吸う煙草の吐いた煙が顔の前で「静止」してしまう・・。微塵の風も侵入しない。

「リハ」ばかりしても、相変わらず「噛み」まくりで仕方なく「リハ本番」に切り替えた・・。
撮影当初こそ「美人」の登場に現場は皆、鼻の下を長くしたが、あまりの「下手さ」に、代理店、エキストラ、撮影部、皆イラつき始めた・・。

ヤバイ、オレのセキニンだ・・、綺麗なんだがナァ・・。)

NG21回目で、ようやくOKを出した。それ以降、時間が詰まり台本の演出プランを大幅に変更せざるを得なかった・。
マネージャー氏はこの「美人キャスター」氏と共に、わたしの居る、録音作業中の渋谷のスタジオに出向いて「お詫び」に見えた。
スンマセン、下心のあったコチラが悪いのじゃ・・。

グラフィックス火野1
(テレビ画面より)
こういう場合は、この画像のマネージャーのように、「カメラ側」では無く、「ドア裏」から「キュー出し」するんだヨADクン


現場も気付いてやんなっテ

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07

15

コメント

あしたの先の「道標」・・・。

「海の日」の窓外は、暑さで静まり返っている・・。
この9月で、この糞人生を綴ったわたしの『ブログ』も2年目を迎える・・。

ありがとうございます・・・。

こうした「形」でわが内なる『恥』を少しづつ振り返る「コト」は、ネット上で『リンパトレナージュ』しているようなものデス・・・。
20000回という、およそ想像のつかない回数をご訪問いただき、その事実に愕然としています・・。

もう何年前からであろう?「セミアダルトブログ」の分野に『あうらさん』なる子持ちでいて、ご自身のマイクロビキニ姿を公開する「セレブなママさん」がおいでになる。
ご近所やらご親戚やらの「目」は、憚らず「目隠し」ナシで、「か細い身体」に製造縫製メーカーから取り寄せた「極小水着」を「公開」すると、猛烈な勢いで「閲覧数」が急膨張し、その様子は「日刊タブロイド誌」でも長く紹介された・・。(現在は諸事情の為か閉鎖中)

「閲覧進度」のスピードが“もの凄い速さ”で、ご本人が嬉しくも戸惑っていた様子が垣間見えた・・。

どのみち「公開」するからには大勢の方にご覧戴きたいが、「無かったコト」をこと「センセーショナル」に、つまり「嘘」或いは「虚飾調」で創り上げたのでは、哀しいのだ・・・。

わたしがファッションセンター「しまむら」の「Tバック」穿いて振り返った画像をUPしたところで、どうなるもんでも無いしなァ・・・・。


日に日に薄れ往く「景色」と「思い」はこの「ブログ」で“後悔しながら懺悔”して参ります・・・。

ゆっくり、とね・・・・。

ありがとうございます・・・、是非またお時間ある時に、覗いてみてください!!
メール・拍手のたび、涙して喜びを噛締めています、お待ちしています、お気軽に、お気の毒・・。



20000回かァ・・・・、カミサン20000エンくらい「ボーナス」から クレナイカナァ・・。
イマスグなら、2000エンに負けとくけどなァ・・・。


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07

18

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卒業。

某自動車メーカー系の物流企業の「役員」から、このブログ記事について誠に不可解な「因縁」をつけられ、直属上司が「本社」に呼び付けられ、わたしの「解雇」を「体裁」ヨク不当に迫り、譲歩した上司は「部下」への「体裁」を張るため、わたしへの事前通告無き「賃金引下げ」を敢行し、対して「抗議」と「降参」の意味合いを込め「FAX」2頁に「退職理由」をシタタメ「社」に送付したらば、1本の「電話」すら無く、半ば『もう、お前の相手なんかしてらんない』の如く、「無言」で「自己都合退職」扱いの離職手続きをしてきた・・。


わたしの廻りのあらゆる「人」は『組織』の中の「大物」過ぎる相手故、見て見ぬフリを決め込んだ・・。
まあ、仕方ナイ・・・。皆「弱者」なのだ・・・・。


元請先の企業で、皆の協力で相次ぐ「企画提案」を実行し、私費で「自社」の為ならと元請先催事にも積極的に参加し、「表彰」も数度授与され、「規範」となるべく「あらゆる活動」を実行した。

その「経緯」を踏まえ、状況比喩を匿名に継ぐ匿名である「事案」を批判したら、とある「役員」が『許せーーーん』と言い出した・・・。

その言葉ソックリ「あんた」に X2で「お返し」する・・。
アンタ自身が「自社のコンプラ違反」!!



この先、御社で何か「不祥事」が起きても、まさか、わたしの名を「官憲」に出さないでね・・。

わたしは、そんな「悪い」ヒトじゃないヨ・・。そんなコトで「恨み」晴らさないでね・・・・。

「〇ンチュリー」のオッサンへ、お願いしときます・・・。

「港」のコワイカンケイの「フロント企業」の下部組織に、わたしを潰す「依頼」なんかしないでね・・・・。


さて前を向こう。


私事をあまり明らかにすると、何されるか判らないので、書かないコトにする・・・。
ひとまずは、また明日・・・。

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07

19

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卒業と胎動・・。

日本の学校はそろそろ待望の「夏休みシーズン」を迎える・・。

カミサンの故郷ではこの6月から姪っ子や甥っ子たちの「新学期」である。
立派に大学を卒業したファミリーもいる。
グラフィックス卒1
中央で手に膝を付いているのが姪のメラニーUST-AMV College of Accountancyにてのスナップ。

フィリピンの高等教育への就学者数は、近年240万人前後で安定的に推移している。
私立大学が全体の9割を占めるが、経営的に学生を集めることが容易な大都市への立地が多く、地方の学生にとっては就学へのアクセスに困難が伴う。
グラフィックス卒2
経済商業の中心マニラ首都圏 周辺に数多くの私立大学が。

「ヴィサヤ」「ムスリムミンダナオ自治区」「サンボアンガ半島」等、所得の高い首都圏を離れると「地方」では学校を「整備」しても、その学校に通うための交通費が払えない、行事などの際の費用や制服が買えないといった事情と、教育を受けても「地域」に「就業の場」が無いなどの理由から、そもそも「就学の意欲」が低下し、結局家庭を支える為、義務教育途中の小学過程で多くが「離脱」してしまう。

更には「少数民族」などで地方言語を話し、「公用語」による授業が理解出来ない、スラムなど公的な教育サービスが行き届かない地区の児童の存在など、地方地域別の平均所得水準の高低が最終到達教育段階と深い相関関係を持ち、「連鎖」を断ち切れないジレンマにある・・。

グラフィックス卒3
やはり今年卒業を果たした姪のデズリー、卒業式の講堂にてLyceum of the Philippines University
一番上の画像の姪メラニーの父上は日本から中古車輸入の貿易を手掛け、学校も経営する日本のアニメオタクの資産家嬢。一方のデズリーは長距離大型貨物船で航海する父上が、ひたすら「稼ぎ」育てた・・。

グラフィックス卒4
こちらはひと足早くOur Lady of Fatima Universityを卒業し、地中海沿岸と世界を結ぶCelebrity Cruisesなる豪華客船の乗船クルーとして勤務している姪ジンローズ・・。
航海のオフ日には世界の名だたる観光地での羨ましいばかりのスナップ画像がFaceBookにUPされる。

グラフィックス卒5
一番小さな赤ん坊がデズリー、左下シャツを掴んでるのがジンローズ。

ナンテコトだ、皆、おーきく成るスピードが速すぎるゼ

カミサンと一緒になる時、あるテレビ朝日の先輩はご自分の経験から「ハタノ、止めといた方がイイゾ、大変だぞ・・。」と云われた。
一方で、東京での披露宴を取り仕切って下さり、現地での結婚式にまでお見え戴いた映画監督で映像会社社長からは「ハタノクン、彼女と一緒になると云う事はカノジョの「家族」もキミが「背負うんだ」よ・・・。」


結婚して18年、ほんの一時期、経済的に彼女の家族全体が困窮したコトは有ったものの、皆、「自力」で往く道を紡いで来た・・・。
この国の日本に嫁いだ「嫁様」に、親が「国際電話」で金銭を無心する話は、カミサンやわたしのまわりで盛んに耳にした。(悪気は無いのだ)

わが子を設けなかったことも、幾分、功を奏した面が有る(マイナス面は勿論)。
カミサン同様先に日本に嫁いだ「姉」が経済的に裕福な家庭に嫁いだのも更に「事態」を軽微なものにした。

グラフィックス卒6
左はジェリーメイ、右はアヤヒー。西部海岸の別荘地にてわたしが収めた1枚。
親御さんたちの苦労はまだ「先」が長い・・。

わたしにも、この歳でも『夢』は有る・・・。
これら素敵な「家族」に世話を掛けずに「しあわせ」に生きて往かなければならない。


また、まだまだ、「歩いて往く」のだ・・・。まだ「逝けない」


「イクトキ、イッショ」いや出来れば迷惑を掛けずに「先にイキタイ」・・・。


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07

27

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「手」と『手』。

このところ、早朝出勤と残業を繰り返すカミサンに付き合って、会社まで送迎をしている。
朝立ち寄るコンビニではカミサンが会社に着いてから飲む「ヘルシア」を、夜は迎え先近くのコンビニで自分用に「ダイエットコーラ」か「黒烏龍茶」を買う。

グラフィックス7末1

各々別系列の店舗なのだが、弱るのは両店舗ともつり銭の渡し方が「包み渡し」なのだ・・・。
朝は、年のころ30代後半くらいの女性、夜は上の店舗で20代の男性である。

ネット上で古くからこうした「つり銭」の渡し方、渡され方の議論が在るのは承知している。
働くスタッフの方の「容姿」や「性別年齢」をアレコレ揶揄するのでも無い。
 
だが見ず知らずの方に、彼らの「仕事」とはいえ、日常生活の「買い物」というありふれた活動シーンで、まったく「不意」に手を握られるのは、どうにも気が滅入る。

それも「毎回」、目を見て・・・。

そのコトがキッカケで「ああ、イイお店だな、イイ、スタッフさんが居る、また是非!立ち寄ろう!」とは成らない。
相手は「不特定多数の人」から、膨大な「硬貨・紙幣」を受け取り、店舗清掃と店外のごみも始末し、検品用ハンド・ターミナルを手にし、レジキーも打つ・・・。

某チェーンのように店内調理のファーストフード店でも、幾多のつり銭に触れた手でトレーシートを敷き、こぼれたポテトは直に触れて形を整える。此処でも、いちいちアルコール消毒なんかしない。

グラフィックス7末2
http://pro.foto.ne.jp/

精神を病んでいるワケでも無いので、大腸菌の氾濫は気にしないが、差し出した右手をいちいち「両の手」で包まれる「感触」が精神的に宜しくないのだ・・。
結婚指輪の贈呈ではナイじゃん

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(2010/04/22)
新川 義弘

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普段はひとりで「六本木・高樹町」や「飯倉片町」「渋谷・神泉円山町」界隈を飲み歩くのが好きであった・・。

この日は時間的余裕なぞナイのに「仕事」を早々に切り上げて、珍しく番組プロデューサー氏やAD連中と共に、とある繁華街の芸能人の知人の「店」へと繰り出した・・。


この日は某プロダクションでご活躍された「女性」もイッショであった・・。(どういう流れで合流したのか記憶が無い)

気さくな「人柄」のカウンター内の「芸能人マスター」と洒落た薄暗い店内で、一列に横並びになり、楽しく飲み明かした・・。


何かの拍子に、ふと、カウンター席の隣に座るその「女性」と「手」が触れた・・・。
酔った「力」をお借りして、膝上のその『手』を誰も知らぬ間に軽く「握った」・・。

腰から上では、互いに何食わぬ顔で「会話」に爆笑しつつ、時折「握り返して」くる彼女の『手』の感触はエロチックであった・・。

時計の「針」はてっぺんに近く、やがて同行した番組プロデューサー氏は酩酊して崩れ落ちそうな様子。

いつものパターンであった・・。(ひと眠りしないと手に負えないのでよく“放置”した)


「互い」に特に申し合わせたワケでも無いのに、『手』を引き合い、ADの子に二人分の「お勘定」をあらかじめ手渡し、脱兎の如く猛ダッシュで店を飛び出した

グラフィックス7末3
http://freephoto.bizutart.com/

ふたりで、「大笑い」しながら、『手』を繋いだママ、繁華街を走りぬけた・・・。


「自らの発する笑い声」に絡むように、あどけなく、同じように繁華街の軒先に響き返る「走りながら笑い続ける彼女」の「声」と、その瞬間の『手』の感触を、この歳に成ってもいまだ鮮明に覚えている・・。 


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31

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ああ、幸せなる年マタギ。

いろいろと、小うるさいカミサンが居なくなり、することも無いので調子に乗って暴飲したら一発で胃痛と水便に襲われた
夜勤の仕事が始まり、食生活と睡眠が急激に不安定に成ったコトに加え、カミサンたちの出国騒動・・。
我が身体には相当ストレスだったようだ・・。胃がお疲れのところに飲んじゃった。
胃薬はいろいろ買い置きがあったが、下痢止めはカミサンが持参してしまった。取り敢えず胃薬を飲んでヨコになる。
脂汗をかき、お尻からビュービュー便を流し1日が過ぎた。スポーツドリンクと正露丸を手に入れたいが、ビュービュー便が止まらない。肛門はタダレ、オロナイン軟膏を塗ると楽になった。

二日目の夕刻、便意の薄い頃合を見計り、レトルトおかゆとバナナを含め、篭城覚悟で買い物に出た・・。
68キロを超えていた体重は僅か三日で65キロに成った・・。小便がでたのも三日目。

グラフィックスラスト5
(テレビ画面より)
そんな体調の悪い午後、BS Twellv『片岡鶴太郎のにっぽん蕎麦紀行 東京・狛江志美津や』
研究の末の熟成蕎麦を食べ比べ。
番組公式HPは、彼のコトを『平成の魯山人』と呼ぶがあきらかに言いすぎであろう・・。
「訪ねて」、「ご主人蕎麦打って」、「薀蓄ダラダラ」。これでラストへ。

グラフィックスラスト6
(テレビ画面より)
番組ラストは味わった蕎麦の感想を“右利き”なのに“左”で一筆シタタメテ終り・・。

グラフィックスラスト7
(テレビ画面より)
BS Twellvの放送枠だが、製作母体はCSの「旅チャンネル」。
親会社は異業種合弁で設立されるも資本金の増資減資を繰返し、相次ぎチャンネルから撤退、現在米国タイム・ワーナーの傘下にある。
この親会社へ、過去わたしも制作への参加を打診されたが、環境が悪くお断りした経緯があった。
放送用撮影機材は提供する、取材後のVTR編集室は提供する、だから制作費は格安のグロス・ナンボで請け負いなさい、と当時としては斬新“風”なビジネス・モデル・・。

なにしろ、予算を持たず(推測だが)巷溢れる蕎麦に関する情報本の中から由緒ある蕎麦打ち名人を順に紹介しているに過ぎず、「薀蓄ダラダラ」部分が長く、テレビ的に間延びし過ぎ・・。
取材・構成が多角的で無いのだ・・。5分番組程度の内容。

紀行モノとメイ打っているわけであるから、旅の風情、ご主人の人生を投影した蕎麦の味、人情描けてしかり、制作予算が無くても、制作会社や演出が変わればもっと違う表情が出る・・。
番組タイトルを「鶴太郎」氏に“左手”で書いて貰った時点で自己完結してる・・。

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(以下Youtubeより)
CX『オールナイトフジ』(昭和58年:1983年)
鶴ちゃんが、輝いていたバブル時代・・。素人女子大生相手に局部露出を楽しんでいる様子・・。

グラフィックスラスト2
鶴ちゃんが、輝いていたバブル時代・・。妻が家出し留守の間に娘を犯そうと布団をめくり断念、最終的に長男が肛門性交させられ、翌朝お尻にガムテープを貼り登校する・・。

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(筆者注:Youtube画面はマスク無し)
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局部丸出しで銭湯を歩く幼女に興奮勃起し湯船から立ち上がれなくなる鶴太郎親子の様子・・。
他に男性器が露出してしまっている場面もある。

このあと約2年後に、郵政省(当時)の是正勧告に基づき深夜放送全般に性描写公開についての修整が入る・・。


その夜、多角的取材構成で見せるのがBSジャパン『桑田式スポーツK営学』。
早稲田大学院にてスポーツビジネスを学んだ「桑田真澄」氏。
なかなか目の笑わない方だが、ご自身の看板番組とあって、企画がユニークな一味違う意欲作です・。

グラフィックスラスト8
(テレビ画面より)
この夜のテーマは、地方倶楽部の健闘、成功するアメリカサッカー界、Jリーグの未来展望・・・。

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(テレビ画面より)
ベトナムの人気選手を札幌のチームへ招き、日本の試合をベトナムでパブリックビューイング、それにより巻き起こる無数のビジネスチャンスを伺う企業像を追う、多角構成。

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(テレビ画面より)
グラフィックスラスト14
(テレビ画面より)
グラフィックスラスト9
(テレビ画面より)
「桑田」氏を補佐する女性司会「大橋未歩」氏の仕切りもなかなか素晴らしい・・。

番組内で使用するフリップ、VTR構成、ゲスト陣のトークどれも見応えが充分に有り。
美術セットとライティングも独特で、ザッピング中に目を引くなァ・・。

昔、バニーガールの居た銀座のはずれの『エスカイヤー倶楽部』を思い出す・・。


で、前日のBS朝日『熱中時代 大人のランキング』。
「桑田真澄」氏のそれと美術・照明だけ比べて味噌

グラフィックスラスト15
(テレビ画面より)
ゲストに三越伊勢丹HDの社長を招き、「進藤晶子」氏、「鴻上尚史」氏とキャスティングは申し分無いのに、薄っぺらそうに見えるでしょ
「ヒト」。そこに座り、語る「ヒト」が見えなくなる相殺セットだ・・。

グラフィックスラスト17
(テレビ画面より)
ナンデモカンデモ明るく当てちゃって、ウチノスタジオはこーーんなに明るいよーん

名づけて「ヒト殺しセット」。視聴者の目を肝心要の「人物」で無く、背後の美術に向けさせるデザイン、注視させてしまうデザイン。

グラフィックスラスト16
(テレビ画面より)
何度も申し上げている、マインド不在の美術・照明。ナンデモアルミパネル。何処でも小物目一杯飾り。

「MONOマガジン」と「東急ハンズ渋谷店」をぶらぶらして買い漁ったような小物陳列が“美術”と思い込んでる。
これが「テレ朝」美術の、ぽりしー&ふぃろそふぃー・・。
「鴻上尚史」氏あたりは演出も手掛けるから、さぞかし不満だろうねェ、こんな造形。


「熱中世代」=団塊の世代を中心に、50歳以上のミドルとシニア層。まだまだ熱いミドル世代!
 (番組HPより)

企画意図も曖昧だ。だから、セットにマグカップや60年代のアメリカンカルチャー雑貨が並ぶのだ・・。
これじゃ『ベストヒットUSA』だせ
美術が、曖昧な企画書を読んで、勝手に作っちゃって、照明がギンギンにただただ明るくするって・・・。
「人物」飛んでるべェ
「セットと照明」が主体って、どーいうチームだべェ


NHKやキー他局を見習いアソバセ。


あ、ごめ、チョット、トイレ
除夜の鐘の間も便所に居たりして・・・。


古い記事も充分に面白い『ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生』
是非、過去記事もお時間あれば、ご覧くださいネ!



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これが、アホダメおとこのプロフィール!

hata50

Author:hata50
波田野 広之
中学時代、歌舞伎の尾上一門にあたる尾上流舞踊家の畑道代氏(故人)に師事。舞踊集団菊の会在籍。
日本舞踊・民族舞踊・長唄・鼓・三味線を学び、高校在学中、実母の逝去に伴い裏方に転向、舞台音響家を目指し、元日本音響家協会理事・八板賢二郎氏に師事。

ANBテレビ朝日報道局報道取材部アルバイトを経て正社員。制作助手、ENG機材営業を経て社員ディレクター第1号。後、作曲家筒美京平氏の従弟が経営する日本ビクター傘下の映像制作会社勤務。
「早見 優のアメリカンキッズ」他千葉テレビ情報生番組「MOONラビット」総合企画・演出。NTT,Nikon,三共製薬、ロータスジャパン、横浜ゴム、日立、三菱、JVC等東証一部上場企業の産業ビデオ多数演出。

後、映画監督で日本映画監督協会専務理事・後藤幸一氏に師事。河合塾サテライト講座、朝日放送「素敵にドキュメント」「これは知ってナイト」「平成ふしぎ探検隊」他多数演出。
その縁で逸見政孝氏(故人)峰竜太氏、清水由紀子氏(故人)渡辺めぐみ氏らの発起人により、35歳で外国人妻と結婚。

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