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越え行く、時。

恒例の「スカパー!」無料放送月間がスタートした・・。

時代劇チャンネルで「素浪人 花山大吉」(1969年・昭和44年1月~1970年12月)を40年ぶりに観る事が出来た。
わたしが小学生の頃の作品。制作は「NET」と「東映京都テレビプロ」。
グラフィックス素浪人1
(テレビ画面より)
「NET」はテレビ朝日の前身、「日本教育テレビ」の英文社名通称。創立時の免許交付の条件は教育番組を50%以上、教養番組を30%以上をオンエアする事が前提であった。
わたしが在職中に、報道取材部の機材庫に「NET朝日」の名称が記載された廃棄機材が在った。

この番組の前作「素浪人 月影兵庫」は弥次喜多珍道中さながらの「コミカル路線」が人気を呼んだが、原作者の剣豪小説家・南條 範夫氏(故人)から「原作との乖離が甚だしい」とされ、急遽プロットはそのままにタイトルを変更し「続編」として製作した。

グラフィックス素浪人2
(テレビ画面より)
劇中の大半が、「故・近衛十四郎」氏演じる主役「「大吉」と「品川 隆二」氏演じる旅の相方「焼津の判次」のやりとりに終始する。
モノクロ作品ながら、ローアングルを多用した細かな「切返し」カットで軽妙な二人のやりとりを紡ぎ上げ、台本のト書き部分まで丁寧に描く。

グラフィックス素浪人4
(テレビ画面より)
テレビサイズの画角に飽き足らない、東映京都映画陣の遊び心溢れるカット。

グラフィックス素浪人3
(テレビ画面より)
画面右が「品川隆二」氏。
戦後のどさくさに紛れ、ゆすり・たかり、窃盗、ダフ屋、景品買い等の違法経済活動を行う不良グループの後、戸籍抄本に細工して「年齢詐称」し大学に入学、所属した「撮影所」子息の恋人を略奪した事から「不遇」を買い、転籍した「撮影所」では「労働組合活動」に傾注し「退社」。
当時、大人気であったコノ「当たり役」、ご本人は大嫌いだそうだ・・。

一方、画面左は「松方弘樹」氏の「お父上」。
第二次世界大戦でソ連軍が占領した満州で、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜として奴隷的強制労働の経験を持つ異色の猛烈な出演数を誇る「剣豪スター」。
苦労の割りに東映では二線級スターの扱いだった・・・・。
ソープランドやモーテルを経営しながら、晩節、糖尿病に苦しみながら荼毘に付す。

グラフィックス素浪人5
「父上」に「瓜二つ」の息子さん・・。(それにしても似過ぎだ)
名実共に、輝く「名声」は「親父」を越えたようだ・・。

想うに、わたしは、ワタクシめは、「父」を越えたのだろうか・・・。

「電気工学」に長け、「手先が器用」で、「美術造形」にも優れていた「父」・・・。
今、「非力」なわたしは、一体、「彼」から何を学んだのだろう
我が「死」を迎えるまでに、越えられるか
「父」のように「子」を二人、「世」に送り出し育ててはいない・・・。
既にこの時点で「アウト


比べるマデも無い、か・・・・。


もう、「無理」かも知れない・・・。
「無理」です・・・。


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過剰なる期待。

目下ダイエット中である。
夜、極力「ご飯粒」を口に入れぬようにして、「野菜サラダ」を多めに採っている。
3キロはスグに落とせたのだが・・・、その先の「期待」は薄い。

空腹で寝付けずに、真夜中目が覚めてしまい、焼酎をロック・グラスに入れテレビの前へ・・・・。
CS「TBSチャンネル2」で「大映テレビ」製作「少女に何が起こったか」(昭和60年・1985年~全12話)。
グラフィックス大映7
(テレビ画面より)
主演は、いまNHK「あまちゃん」のお母さんを演じてる人、「今」のほうが「素敵」である。
右の男は「チーボー」のお父さんで「刑事」のヒト。毎夜12時になるとカノジョの元に現れて「罵る」。
カミサンが目覚めると面倒なので、「音声」を消しての視聴・・。

それでも充分、ストーリーが判ってしまうのが「大映テレビ」製作ドラマのスゲぇートコ。


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(テレビ画面より)
主役のカノジョが尋ねた御曹司の「豪華マンション」。NHK受信料は払って無い・・・。

グラフィックス大映1
(テレビ画面より)
いまどき、先生とはいえ「教え子」を部屋にあげ背後からこんな風にしたら、ドコゾの「大企業」の常務役員のように「セクハラ」になっちゃう

グラフィックス大映3
(テレビ画面より)
「師弟愛」は「情欲」を粉砕し、激しくピアノレッスン
それにしても、コノ衣装、シルクの蛍光色って、どうよ

グラフィックス大映5
(テレビ画面より)
音楽大学のセレブな生徒達・・・。皆、主役の彼女が嫌いだ。すんごい目つき・・。
授業は「私服」でいいのに・・・。

グラフィックス大映4
(テレビ画面より)
自宅のピアノに向かって「怒鳴り出した」・・。

「堀ちえみ」氏や「山下真司」氏のシリーズの後の製作作品。
もともと「時代劇」ルーツの「撮影所社風」が、終戦と淘汰の時代の流れの中で「現代劇」を「所属俳優も製作陣」も創らざるを得ない状況下、「サムライ映画」風の「オーバーな脚本・過剰な芝居演出」が施され、それが「定着」した。

昔、わたしの居た会社に都内の著名な「ヘリコプター」会社を転々とされた「営業マンN」氏が「就社」した。
ドラマ・映画の「空撮」専門のコーディネート業務。
その「N」氏の「ご縁」で「大映テレビ」の「K」氏という「ドラマプロデューサー」から「お仕事」を戴いた・・。

ご自分の担当された「連続ドラマ」や「2時間ドラマ」の「舞台」として幾度も沖縄や奄美大島諸島を訪れるうちに、「奄美大島紬」の生産者の方から、東京を「舞台」にしたプロモーション・ビデオの制作依頼だ。

ビデオは「Kプロデューサー」からご好評を戴き、「営業マンN」氏と共に胸を撫で下ろしていると数日後、「夕刻、渋谷で逢おう」とお誘いを受けた・・・。

詳細な記憶は曖昧だが、待ち合わせ場所に行くと「東急バス」で世田谷方面に向かった・・。
(大プロデューサーだからタクシーかと思ったが・・。)

案内されたのは、実は殆んど覚えてイナイのだが、その「Kプロデューサー」の「門下生」の集まりであったようだ・・。
「今、一緒にビデオを創っている若い新人ディレクターです!新鮮な感覚の持ち主だ!」と持ち上げられ、十数名の俳優志望の若者の前で「自己紹介」させられた・・。


何か、次のお仕事の依頼でも在るのか、その「門下生」さんらと何かジョイントさせて戴くのか・・、こちらが期待した流れは、その後何も無かった・・。
「門下生諸氏」は今現在もご活躍中のようで、ネットで検索し「来歴」を見ると、その「Kプロデューサー」が登場する。


世田谷からはタクシーを拾って帰った。狐に摘ままれた想いが「少し」した・・・。



(この「奄美大島紬」のビデオ制作の件はいづれの機会に)

06

11

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30年目に明かせる真実。失脚の経緯①。

東京千代田区に「砂防会館」というホールがある。
グラフィックスタナカ1
Sabo Kaikan (2006.05.06).jpg

自民党最大派閥木曜クラブ事務所があり、「砂防会館」の名は当時の「田中角栄」氏の代名詞であった。
「ロッキード事件」では、主な現金授受の場所と認定された。

1982年・昭和57年わたしがまだ22歳当時、このブログで度々登場する『舞踊団』の公演が、ある日行われた。
関西を拠点にする「舞台演出家」を迎えての「ミュージカル作品」。

「浅利慶太」氏「日下武史」氏ら「劇壇四季」が、収益拡大とその先を目指し、新宿の空き地にテント劇場を仮設したのもこの年である。

『舞踊団の師匠』は「EXPO70大阪万博」や「都をどり」、「日劇」等日本の近代舞踊の「振付」をこなした方。
発足させた「舞踊団」を株式会社に格上げしたものの、年金・保険の加入は当時の情勢としても存在せず、元旦以外満足な休暇も無く、朝から終電車間際かそれ以降タクシーで帰宅する毎日。手取3万円。

38歳で急逝した母親の没後から5年、家に居れば家族の食事も洗濯もせねばならず精神的にはかなり「疲弊」していた、と思う・・。

関西の演出家A先生は、新宿新都心に程近い、シティホテルに舞台演出の制作期間中、連泊。
山の手通り沿いに在った稽古場にはタクシーで通った。

ホテルでの食事を取りながらの打合せ、お茶を飲みながらの打合せ、稽古場までのタクシー代、演出助手との食事代・・。全てわたしの自腹。(自腹というより間接的には我が家のサラリーマンの父が払っているようなもの)
「仮払い」はおろか「雑費経費」そのものを精算する「概念」が、誰にも無かった・・。

今、思い出すと腹が立つ。

制作陣は音楽作曲・制作、演出助手、構成脚本家、印刷物制作デザイナー・・・、皆、大阪制作。
それを、東京へ「持帰る」システム。皆、演出家A先生のブレーン。

オーケストラ編成の音楽録音では大阪のとあるレコーディングスタジオへ、単身出向いて立ち会った。新幹線の交通費以外、事務所は用意しなかった。移動・打合せ雑費全て、またもや「自腹」。
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MBS Senrioka Broadcasting Center.JPG

現地のコーディネーター(仮にB氏)は、逢わせたいヒトが居る、と何の関わりも無いのに、わたしを当時の大阪・千里の「毎日放送センター」へ連れて行き、ある音楽出版の重役に引き合わせた・・・。
今後、組む予定も何も無い・・。(自分が顔繋ぎしたいだけなのだ)

宿泊はB氏に阪急系の高級ホテルへ案内されたが、「そんな舞台予算は付いていないんですよ」とフロント・ロビーで丁重にお断りした・・。(宿泊費も自腹)

そのB氏の本業は「アド・コンサルタント」らしく、会社にも案内された。
演出家A先生はその会社の顧問も務める。
公演用のチラシ・・パンフ・チケットの印刷をB氏に請負ってもらう先生の指示。費用の振込先を知らされ、数週間後、指示通り支払を済ませた。

入金日の翌日、東京の事務所のわたしの元へ、B氏から猛烈な「クレーム」電話が入る。「印刷代をお支払い戴いていない様ですが!どうなってます?!」
狼狽・恐縮するわたしは、慌てて入金先の銀行へ問い合わせると、当時は丁寧に、「入金日に百科事典の引落に全額振り替え済みでございますが?」と言う。

あろうことか、B氏は個人名と法人名を連結させた口座に個人のクレジット契約金を意図して振り替えさせたのだ・・。
「作品」のマネージメントを預かる身としては『舞踊団の師匠』に経緯だけ説明し、「コト」をこれ以上荒立てぬ様にした・・。

東京・246号線沿いに「創価学会幹部」の経営する中華料理レストランがあり、その店舗駐車場のプレハブ小屋にA先生の取巻き、C氏が寝泊りしていた・・。
「ハタノ、チョット話が在るんやけど・・。」深夜タクシーで急ぎ向かうと、長髪のC氏が煙草を吸いながら待っていた。
A先生がな、当面の経費が足らん、と言わはってるんや・・・。」


何のことは無い。生活費の無心である。



仕方なく『舞踊団の師匠』にその旨伝えると、「普通、そういうお金はご自分で出すもんだけどねェ・。」と金庫から(領収証を切らずに)数十万円を取り出した。


ミュージカル公演で使用する「楽曲」は、わたし自身が「ステレオ音源」とするよう指示した。
「モノラル音源」と製作金額に差異は無いので、そう所望し、劇場ホールでも「ステレオ再生」を目指した。
これが、そもそもの間違いであった・・。
ホール既設の音響設備を利用する「発想」自体が欠如しており、音楽再生のオープンリールデッキから音声調整卓、PAスピーカーの全ての搬入設置を「外注」した。これも間違い・・。


通常のホール音響を賄う業務用機材は「舞踊団の自前」で充分揃えて在ったにも関わらず・・・。
22歳の小僧が、現場経験僅か6年あまりで、見得張って「トレーニングも積まない未知の機材」でオペレーションする・・・。(馬鹿まるだしである)


わたしはこのミュージカル作品の「舞台制作」と「舞台音響」の両方を担当した。


これが最大の間違い・・。22歳の小僧に両方は無理なのだ・・。
この歳になってみて振り返れば、それがどんなに「リスク」のあるコトかは容易に想像が付く。
子供の遊びや学芸会運営では無いのだ・・。フツー、片方で手一杯。

わたしを、その両の業務に配属したのは『件の師匠』ご自身なのだ。
数々の国際文化交流事業をこなし、文化庁芸術祭でも賞レースで優勝し、「スマイリー小原」氏も挨拶にみえるような「振付界の大御所」の「マネージメント」そのものの、失敗である。

KING RE-JAZZ SWING: DANCE WITH SMILEYKING RE-JAZZ SWING: DANCE WITH SMILEY
(2006/04/26)
スマイリー小原とスカイライナーズ

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東京・下北沢あたりの小劇場や公民館の催事とは内容も規模も訳が違う。


疲弊しきっていた・・。家でも、「舞踊団」でも。なによりも演出を始め大阪の取巻き連中の相手に数ヶ月、翻弄され続けた。

公演開催が迫ると、演出家A先生は東京・新宿の宿泊ホテルに作家のD氏を呼び寄せた。小太りでロン毛パーマで牛乳瓶底のような眼鏡を掛けた奇妙なヒト。(これでまた経費が増える)
ダンス指導の助手としてE氏も「稽古」に参加した・・。(これでまた経費が増える)
更には「ハタノが好きに使ってくれてイイヨ」と長身でギョロ目のF氏を不意に、あてがわれた・・・。(これでまた経費が増える)

大阪の演出家先生は「舞踊団」と演出契約をした訳だが、何の約定も交わさない中で、日ごとに自前のブレーンを呼び寄せてしまった。

「信越化学」なる何の脈略も無い合成化学企業からもG氏が「稽古場」に現れ、演出家A先生は「ハタノ、マイクスタンドでも何でも言えば作らせるヨ」等と、意味不明・頓珍漢に引き合わされ、22歳の小僧の混乱・狼狽に拍車を掛けた。


全てはわたしが「お相手」するのだ・・。


「砂防会館」ホールでの公演を翌日に控え、照明・大道具美術関係者も含め、前夜の稽古には熱が入った・・。
稽古中、演出プランの大幅な変更が在った。

このことに因り、演奏に使用する大阪でレコーディングした「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に、「Aロール」「Bロール」各々編集し直す必要が発生した・・。
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Open reel audio tape.jpg


「ハタノ、ワルイな・・。」最終稽古終わりに大阪弁で演出家先生は仰った。

「ハイ、ダイジョブです・・。」(全然、大丈夫では無い)


時計の針は夜10時を回った。これから明日のリハーサルに向けた準備だ。衣装・小道具・機材の積み込みの手伝い。大阪の取巻き連中を送り出したら真夜中に成った・・。
顔は冷たく、目だけが重く、朝から何も口にしていない、低血糖状態・・。(風呂も何日も入っていない)

傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。(22歳のわたしには彼の為に「仕事」を造る作業自体が猛烈にストレスだった)

「喰わなきゃ、倒れる・・。」鬱陶しい思いでF氏を仕方なく引き連れ、新宿・歌舞伎町にタクシーを走らせ、当時、まだ店舗の数少ない「松や」で食事を採り、再びタクシーで明け方の事務所に舞い戻った。(この金もF氏の食事もまた自腹、取巻きは一切自分では払う気が無い)

「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に編集し直す作業が残った・・。傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。ただ、居る。
(敢えて手伝わせるコトは何く、この「音編集」作業は素人さんには手伝いは無理)
音声機材を前に猛烈な睡魔が襲う。


外が薄っすら明るくなり始め遠くで、雀が囀りだした・・。


久々に「松や」の重厚でしっかりした食事を採った「カラダ」は休息を強烈に要求した・・・。
(この場で進めるべき作業機会をあっさり失った)
「仕方ない、ホールで作業するしか無い・・・。」タクシーを急ぎ拾い、F氏を連れ「砂防会館」へと向かう。


「嵐」が来た。


「制作担当」としてホール管理者に挨拶、各セクションの搬入作業者に挨拶、チラシ・パンフの準備、それと並行して音響機材のセッティング、瞬く間に「貴重な作業時間」が「高速」で消えてゆく・・・。
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「楽曲」の編集作業を始めると、途中さまざまに「声」が掛かる。
舞台効果で使用するドライアイスの業者が来たので「支払いをお願いします!」
「食事代金の精算をお願いします!」「何処へ置きますか?」「パンフは何処に降ろしたかしら?」

大阪の制作陣も順にやって来る、ひと言二言、挨拶を交わす。


リハーサルの時間が来た。


(ここで「ステレオ音源」での公演を諦めれば良かったのだ)
ステレオ再生可能な民生用テープデッキ×2台、SE等モノラル再生の放送業務用テープデッキ×3台。
大阪の演出家A先生に了承を求め、モノラルデッキで変則的に再生し、リハーサルを無事、終えた。

リハを終えても尚、制作雑務が残り、肝心な楽曲編集は「店晒し」になった。
(時計の観念の無い、子供な判断である)

「開場時間」と為り「客入れ」が始まる。

「客入れ」でスグ、「開演」時間。
舞台袖下に陣取った「音響席」で重苦しい「時間」が流れる。

編集作業は終わらない。(終わる訳も無い)

開演時間を大幅に過ぎ、一向に始まらない様子に客席が次第にざわつき始めた。
周囲を大勢に無言で囲まれた。(唾も出ない)


「アト、どれ位で終わるの?」


『舞踊団の師匠』はわたしを煽るでもなく、こう切り出した。
(見通しが正確に答えられる状況では無いが恐らく、適当に応えた)
マイク回線を1本空ける様わたしに指示すると、舞台の緞帳前で「挨拶と制作の経緯」をスピーチし始めた。


「発狂」しそうな状態で、「本番OK」を出せたのは開演予定を1時間半位は優に超えていた、と思う・・。(記憶が無い)


いよいよ、開演本ベルが鳴る・・・。舞台だけは何としても成功させなくてはならない。

わたしは、音楽再生用デッキのPLAYボタンを押し、音声卓の音量を上げた・・。
壮大な弦楽奏のオープニングテーマ曲が流れ(る筈であった)。


「無音」のまま、凍りついた如く、緞帳幕が開く。


「客席」はおろか、永田町の「会館」全体を「まっしろ」な空気が襲う。

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「楽曲」の再配置編集に気を盗られ過ぎ、ステレオ再生のケーブルを、リハーサルの時間に間に合わせで繋ぎ変えたまま、サウンドチェックの精神的余裕も無く、そのまま舞台監督に「GO!」を出し、再生してしまったのだ。


仮設の真っ暗な長机の下にの音声ケーブルが垂れ下がっていた・・・・。
(今でもこの光景は目に焼き付いている)

以下、次回更新。


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30年目に明かせる真実。失脚の経緯②。

流れる筈の「オープニング曲」が“深い闇”へと吸込まれ「ホール」に居た観客はもとより、オープニング出演者、他、舞台袖で待機中の出演者、全スタッフが皆、「凍りついた」であろう・・・。
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瞬間冷凍・・。  


30年を経て、今尚、わたしの「脳裏」に、その光景は常に「瞬間解凍」出来る状態に在る。
どんな時でも・・・。
「殺人」や「交通事故」の”記憶 ”を背負うかの如く、「つきまとう」。
当時、若干22歳、今、52歳・・・。

2台のステレオ再生オープンリールデッキ、3台のモノーラル再生オープンリールデッキ、1本のMC用マイク、3本の舞台音声を収音するノイズマイク、4波4本の主役級や「挿入歌」を歌うタレントに持たせる、個別周波数帯のワイヤレスマイク・・・。
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業務用音声調整卓には「検聴」あるいは「プリフェーダー・リスン」と云って眼前の調整卓まで「音声信号」が問題く届いているか、ヘッドフォンやモニタースピーカーで確認出来る回路が在る。

在籍した「舞踊団」の劇場音響業務から、殆どの都内大型ホテルでのコンベンション・サービスの催事音響、デビュー当時の松田聖子氏から他幾多のアイドル歌謡ショウ音響を足掛け7年、致命的な大きな「事故」無く、勤めて来た。(細かな出来事は次回)それなのにこの始末。
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「舞踊団の師匠」 (故人)の指示権は「絶対」で有る。
今更それについてトヤカク言及しない。

52歳・・・。

今のこの歳で、ひと通りの「社会経験」を積ませて戴いて思うならば、22歳のコドモ小僧にアレモコレモ、「不眠不休」で本人の「修行の為」にと「委ねる真似」は、わたしならば、絶対にしないであろうと云う事・・・。
それに尽きる・・・。


上演の舞台上では、「エンディング」に向けて若手の「仲間たち」が必死で「挽回」を「演じる」・・。
巻き戻す「針」は無い。
それでも「拍手」に包まれて「幕」は閉じたのだろう(記憶が無い)。
大幅に遅れた終演時間の為、大至急、撤収せねばならない。落胆している暇も「お詫び挨拶」に回る暇も無い。(他の事のように簡単に楽屋廻り出来る状況にも無い)

大阪の演出家A先生が「音響ブース」の見下ろせるデッキにやって来た。「澱んだ笑顔」が「こころ」に辛い。(スイマセンでした、位は言葉を交わしたと記憶する)その場の返答も記憶が無い。
大勢の撤収作業でごった返した筈だが、ここでも記憶は抜け落ちている。
唯一、覚えている光景が在る。

「砂防会館」ホールの真っ暗な駐車場での事。
機材の積み込みを終え、今度は「事務所」での積み降ろしの為に帰途に付こうとした時、東京・渋谷の「東横劇場」でも大変お世話に成った舞台照明チーフのT氏の運転するワゴン車が、わたしに近づいて来た。


「おつかれさまでしたァ!」折れた気持ちを奮い立たせるかのように、大きな声でご挨拶した・・。

メキッ!バーンッ!!わたしが足元に置いていたお気に入りの軽ジュラルミン製の私物入れトランクがワゴン車に轢かれ大きな音を立てた。
T氏はそのまま、素知らぬ顔で、クルマから降りるでも無くフルアクセルで暗闇の向こうへ走り去った・・・。(普段、とても温厚は方であったが、この時ばかりは、思い知れ!ってとこか)


おそらく、その日の深夜、 「舞踊団の師匠」に「お詫び」に行った。


 「寝たんだって?・・・。」 その言葉以外、どんな会話をしたのか覚えていない。
長身でギョロ目のF氏がチクったのだ)
「プロなら大事な時に寝るな!」ってところか・・・。


ボコボコに潰れたジュラルミントランクを両の手でしっかりと抱え、タクシーで夜中の自宅に帰った・・・。


これ以上関われない・・・。


中学入学と同時に踏み込んだ「舞台人生活」と「サヨナラ」する時が来た・・。
高校2年生の時に急逝した母に"死の前夜”「(舞台音響の世界で)一流に成れるよ!」と宣言して僅か5年・・。
わたしは22歳で、ひとつの「商業公演」を潰してしまった・・・。


数日後の夜、思いがけず、その「ミュージカル公演」で主役を務めたW君がわたしの自宅をわざわざ訪ねてくれた・・。
東京・阿佐ヶ谷の商店街の外れの狭い「お好み焼き屋」で、覚えたての「ビール」を飲み交わし、少し、話をした。信仰に根ざした、彼なりの「自信」に満ちた話であった・・。


これ以上関われない・・・。


「苦悶」し布団から出られなくなったわたしに代わり、「我が父」が自ら、2度と跨げなく成った「舞踊団の師匠」の元へ「退団」を願いに行った・・。


「辞める」と決めたら、少し「こころ」が軽くなる気がした。
「舞踊団の師匠」に「ご挨拶」する事無く、数日後の昼間、「事務所」に私物や自前の機材の一部を引き取りに行った。
山と積んだ荷物を玄関先で揃え、タクシーを待った・・。

「アナタハ、もう、ここの「ヒト」じゃ無いんだからね!」
創価学会の「金庫番」と週刊誌で騒がれた「N総務」のご長女が冷たく早く立ち去れ、とばかりにわたしを煽った。(精一杯の憎まれ愚痴なのだろう)
細身で、清楚で、色白で、グラマーな澄んだ栗毛色の彼女が、わたしは大好きだった・・。

わたしは「砂防会館」駐車場でトランクを轢き潰された時のように、またしても抵抗しようの無い「虚しさ」に打ちのめされた・・・。
レンガタイルの敷き詰められた稽古場玄関に、コの字型に敷かれた「スノコ」が飴色に輝いて居た・・・。



半年後、東京・六本木の映像制作会社に入社し長期「沖縄ロケ」の後、五反田の「ゆうぽうと簡易保険ホール」で開催された「舞踊団」の夏の新作公演を、真っ黒に日焼けした顔でフラリ、観に訪れた。(これも馬鹿まるだし)

生憎、舞台は殆ど終演近くで「フィナーレ」しか拝見出来なかった・・・。
公演の熱気覚めやらぬ楽屋出口に向かうと、「仲間たち」が口々にわたしの名を呼び、笑顔と歓声の中で小突き廻された。

突然、その中から笑顔の「師匠」が現れニコニコしながら、「マッタク、楽屋にくらい!挨拶に来るモンダヨ!」と「大きな手」でわたしのお尻を叩いた・・・。
その「夜」の五反田駅周辺は、とてもまばゆく「輝いて」見えた・・・。


いくつもの「夏」が過ぎ、わたしもテレビ朝日を経て、千葉テレビの情報生番組に携わる。


「小谷実可子」氏のシンクロスイミングの演奏曲を作曲する女性や、グラビアアイドル「小栗香」氏のマネージャなどに短編インタビューをするコーナーを設けたが、企画枯れから、「無作法」を承知で「舞踊団」で修行する、団員女性の「取材」を申し込んだ。(快諾を戴いたが、自分の立場が判っていない莫迦)

その番組が2クール目に突入し、「局舎」全体を利用した大掛かりな生中継を行った。

再び「師匠」にムリなお願いをして、「祭り中継」のゲストとして出演依頼をさせて戴いた・・・。

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寺尾聰、マーティン・スコセッシ 他

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当時、故・「黒澤 明」監督の映画「夢」の「振り付け」と「出演」の真っ最中で、超多忙につき「NGです!」と当時のマネージャー氏に一度は断られたが、 「師匠」ご自身が「出てあげなさい。」とご指示され、再びご足労下さった。

よる8時の生放送終了後、「黒澤プロダクション」が車両手配し、「舞踊団メンバー」をロケ地の富士山麓方面へ乗せ出発した。(申し訳無い気持ちでお見送りした)


幾年が過ぎ、やがてわたしが全国ネットの情報番組をいくつも担当するようになり、番組完成の度に「師匠」宛に番組宣伝の「番宣はがき」なるものを何度かお送りした・・。
18年前、結婚を機に「披露宴」のご案内のお便りを差し上げたらば、折り返し後輩で今や「舞踊団」の重鎮Tさん が、半端ではない厚みの「ご祝儀袋」を託されて、自宅に尋ねて見えた・・。


つい最近、その「師匠」が不覚にも突然、亡くなられたのを、かなり後でネット上の訃報サイトで知った。政財界・各国大使館関係者をはじめ多くの弔問を受けた・・。



丁寧なお礼を「微塵」も言えていないまま、時だけが無闇に流れ過ぎていつの間に「お別れ」となった・・・。
舞踊団のホームページに重ね重ね「非礼」をお詫びのつもりで、一筆お送りした(本来ならばお手紙を郵送すべきなのに)。


「師匠」先生亡き後、新代表を務めるH氏から、超多用な中を、又もや、ご丁寧なご挨拶の「お手紙」を頂戴してしまった・・。
これで、最早、一生、お詫びしつつ生きる他無い事を、更に自覚した・・。



長机下の垂れ下がったの音声信号ケーブル」2本は、「死ぬまで」背負うのだ。
グラフィックス最後5
http://www.cinematoday.jp/page/N0026556


ばかおとこの道標・・・・。



古い記事が、面白い、『ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生』

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コメント

日比谷3題。

前回、前々回の更新記事で、30年目にして「過去の経緯」を明かしたらば、自分の中で「ブログを書く」という行為が少しだけ一段落した・・・、と思う。それ以前の記事はここに行き着くための「助走」だったのだ・・、と。

BS11名作劇場(木曜よる9時)『三人家族』(1968年・昭和43年~)。
グラフィックス日比谷1

地上波民放キー局を親会社に持たない、「ビッグカメラ」が筆頭株主の連結子会社、「BS11」。
いつもながら昭和時代のなかなかマニアックな「ドラマチョイス」が多いなァ、と思って調べたら、深夜枠のマニア向けアニメ以外は、50代以上が番組編成上の「コア・ターゲット」らしい。

BS放送なのに,その自らの棲み分けが変わっている・・・。

ま、いっかァ・・。「FOX bs238」なんて開局以来、ハリウッド・チャンネルを標榜しながら、いまやあろうことか、日本のプロ野球中継を延々、ゴールデンタイムにしてるもんなァ・・。

当時、名匠「故・小津安二郎」監督と並び性的描写の皆無な男女の「恋愛観」から、「家族愛」を描いた「故・木下恵介」監督のメガホンによる全26回の人気テレビドラマ・・。


教員を目指したものの、戦後十数年を経ても尚就職難の時期、「木下監督」に師事し「脚本家」として見事開花したのが、このドラマ執筆がデビュー作にして大ヒットとなる「山田太一」氏。

主人公の男・女各々の生活背景がいずれも「3人家族」という、お得意の「いびつな人間関係」・・。
グラフィックス日比谷4
主人公と友人が「人生」を語り合い、散策する背後の風景は50年前の「日比谷公園」。

過去には武家屋敷が並び、旧陸軍練兵所を経て、神社仏閣を除き、一から造成された「都市公園」としては最古の公園。
グラフィックス日比谷20
写真提供:トリップアドバイザー


遥か昔、小学校の遠足で「憲政記念館」や国会議事堂を見学後、休憩で訪れた事があった・・。

自由行動の時間、かなりの広範囲に三々五々園内を回遊してみたが、子供の目にはさして面白くも無く、名所の噴水前でぼんやりしていた。


「ボク、ボク、チョッと時間ダイジョブかなァ・・。」


突然、若いオトコに呼び止められた。


「テレビの撮影やってんだけどさァ、助けてくれる?」


恐らくこんな会話だと思う・・・。数メートル先に居た「タカハシ」クンだか「タナカ」クンを呼んだ。

「テレビに出てくれ、だって・・。」
グラフィックス日比谷5
この「ヒト」がこの格好で突然やってきた・・。


騒ぎを恐れて、撮影部はおろかこの「ナントカ隊員」と「円谷プロの助監督」以外、誰も周囲に居ない・・。


炎天下、カメラポジションでも変えていたのだろう、少しの間があった・・。
「ボク、お茶有る

「ナントカ隊員」は、わたしが腰に提げた彼の被るヘルメットと全く同じ「色鮮やかなオレンジの長い象印の水筒」を指差した・・。

「ハイ「ナントカ隊員」は、わたしの差し出すお茶を旨そうに飲み干した・・。


(オレの水筒で飲んでる・・。)

グラフィックス日比谷6
TBS『トリプルファイター』(1972年・昭和47年~)
東宝特撮の名門「円谷プロダクション」が当時、民放各局に1本ずつ特撮ドラマ製作をしていた、「粗製濫造の時代」の作品・・。
あまりの低予算の為、「地球侵略」を防衛するのは、たった3人の軍隊。

「東宝スタジオ」を使いミニチュアを造形する余裕も無いので、もっぱら採石場や河川敷での中古車に「特装」を施した車両の「カーチェイス」や「擬闘」がメイン。


後日、夕方のオンエアを心待ちにした。

月~金の毎夕、5時半頃からの10分程度の帯番組なので、ずーーと観ないといつ自分がでてくるのか判らなかった。(助監督は概ねいつ頃の放送かは、教えてくれた)


まだ、家庭用VTRなんて無い時代・・・。

相当、遠くから「望遠」で狙ったカメラは日比谷公園の噴水を捕らえ、脇にオレンジの戦闘服を着た「ナントカ隊員」が立ち、彼が指差す方角へ、勢いよく走り出す「ピンク色のシャツを着たガキ」がわたしだった・・・。



「日比谷公園」は大変に「撮影許可」が取り易い。(今現在は知らないが)


既にこのブログ内でも紹介の「早見 優のアメリカンキッズ」をはじめ、多くの産業映画や、時には元アラジンの「高原 兄」氏と♪メモリーグラスの「堀江 淳」氏をお連れして、緩いコントを撮ったりした・・。

スグ、借りれて、許可申請が簡易で、無料、ロケ車両の駐車場所に困らず、都会的な「画」が取れ、都心なのに日中、比較的に人通りが少ない・・。


「街ロケ」の理想である。


このブログの更新作業中に「楽天オークション」で、最早自分の「手元」には無い『アメリカン・キッズ』のビデオ版3シリーズのうち1本の「出品」を知り、即「落札」した・・。
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わたしの演出したオープニングタイトル。
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恐らく、僅か30秒足らずの映像だが当時の大掛かりなVTR編集スタジオで7、8時間は作業した筈・・。今なら「家庭用パソコン」で瞬時に出来上がる・・。
ビデオ「本編」の方も更に4,5日程度徹夜で「繋いだ」筈だ・・。
グラフィックス日比谷16
グラフィックス23
この後、「プーピー」チャンと「ガリソン」クンは飛行機に乗って「日比谷公園」に舞い降りるのだ・・。

以前、このブログでも申し上げたが、この「オープニング」は「中京テレビ放送」が製作し、「日本テレビ放送網」で早朝にオンエアされた「番組」のオープニングとは異なる・・。


「正規」の番組オープニングのように解釈されて、「Youtube」等の動画サイトに繰り返しUPされているが、オンエアが陳腐だったので、玩具メーカー「バンダイ」様用に「ビデオ版」としてわたしが新たに作り直したモノ・・。


「本放送分」のオープニングを所持されている方がもし、おいでになったら、どなたか差し替えて戴きたい・・。



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これが、アホダメおとこのプロフィール!

hata50

Author:hata50
波田野 広之
中学時代、歌舞伎の尾上一門にあたる尾上流舞踊家の畑道代氏(故人)に師事。舞踊集団菊の会在籍。
日本舞踊・民族舞踊・長唄・鼓・三味線を学び、高校在学中、実母の逝去に伴い裏方に転向、舞台音響家を目指し、元日本音響家協会理事・八板賢二郎氏に師事。

ANBテレビ朝日報道局報道取材部アルバイトを経て正社員。制作助手、ENG機材営業を経て社員ディレクター第1号。後、作曲家筒美京平氏の従弟が経営する日本ビクター傘下の映像制作会社勤務。
「早見 優のアメリカンキッズ」他千葉テレビ情報生番組「MOONラビット」総合企画・演出。NTT,Nikon,三共製薬、ロータスジャパン、横浜ゴム、日立、三菱、JVC等東証一部上場企業の産業ビデオ多数演出。

後、映画監督で日本映画監督協会専務理事・後藤幸一氏に師事。河合塾サテライト講座、朝日放送「素敵にドキュメント」「これは知ってナイト」「平成ふしぎ探検隊」他多数演出。
その縁で逸見政孝氏(故人)峰竜太氏、清水由紀子氏(故人)渡辺めぐみ氏らの発起人により、35歳で外国人妻と結婚。

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