ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!
今週の火曜よる、久しぶりに懐かしい「お顔」を拝見した・・。
「高原 兄」氏。

(テレビ画面より)
関東の「千葉テレビ放送」で『情報バラエティ・MOONラビット』を担当した当時、大変お世話に成った・・。
以前、当ブログで再三触れたがTDLに『Star Tours』が登場し東京ベイに「ジュリアナ」がオープン、銀行のお金が
町中に溢れた昭和バブル経済の真っただ中・・。
フォーマルウエアの社団法人が持て余した資金の一部を「電通」を通して、恒常的に厳しい経営環境にある「県域UHF局」に番組製作で資金提供し、わたしが在籍した会社が「おつきあい」で引き受けた・・。
受注金額が月額160万円余り
と、あまりに安く、テナントビルに入居するだけの制作会社では、撮影機材費やら技術スタッフ費用、仕上げに掛かるVTR編集諸費用などの経費捻出が不可能であった・・。
1クール分制作しても500万円を下回り、おまけに「生放送」の為、毎週千葉県まで出向かなくてはならないのだ。
「電通参事」は口にしなかったが、制作会社の「選定」には紆余曲折が在った筈である。
「つきあい」で引き受け、テレビカメラや編集スタジオを自社で所有し諸経費を(曖昧なる)グロス計算で処理し、更に制作スタッフの遣り繰りが就くカイシャ⇒わたしの居たカイシャ。
わたしの直属の上司は「長期間、安い仕事」にスタッフを丸抱えで捕られる「受注」に強い難色を示した。
当然のコトである・・。
一方で、わたしはといえば、継続的に自分の制作したものが、毎週、ナマ放送で、電波する・・。
小学生の卒業文集に描いた
「夢」
が現実となる「チャンス」
。
渋るチーフプロデューサーを尻目に、この番組製作の合間に他社の業務も平行して「受けこなす」コトを前提条件に(実際は半年間で1本しかコナセナカッタ)社長と話をつけ、制作補4名をシフト制で迎え番組を立ち上げた・・。
月曜よる7時から1時間のナマ放送。全篇VTR番組ではナイ分、撮影取材や仕上げの編集作業の経費は削れる。
しかしながら、週あたり40万円しか無い予算からの高額な出演料捻出は厳しく、「少人数」で「スタジオ」の空気を盛り上げる番組進行が「必須課題」・・。
そこで
「白羽の矢」だったのが「高原」氏であった・・。
当時、名古屋テレビ『オジャマンないと』(昭和59年・1984年~)なる民間放送連盟賞優秀賞を受賞した深夜番組にメインとして出演中で、「太平サブロー」氏と共演の『尾行大作戦』と題する放送回のサンプルVHSを拝見し即決した・・。

(テレビ画面より)
「高原」氏の起用は「大成功」で、1クールで終える筈の番組を3クール延長した・。
この「改編」にあたり企画立ち上げ当初から、局側のプロデューサーは、現在の番組枠で
シンガーソングライターの「KAN」氏を起用し、洋楽POPSビデオを垂れ流す『テレジオ7』との類似性・維持を強く求めたが、わたしは頑なに「否定」してみせた・・。
理由は1980年代より既に、かなり先行して県域UHF局の「テレビ神奈川」が「ミュージック・トマト」のタイトルで、
アメリカの「MTV」を模した月~金の「帯番組」を製作し、地元中高生に絶大な人気を収めていた背景と、実のところわたし自身、あまり「洋楽」

に造詣が無かったからに他ならない・・。
今にして想えば、「電通参事」の作成した赤字確定の「番組企画書」にわたしが

「踊らされず」にそうした模倣「垂れ流し番組」にもう少し「傾注」していれば、「体力・精神力」を維持しながら若干でも「売り上げ」を計上出来たのかも知れない・・。
レコード会社が持ち込むPVを大量に漫然と流し、数通の葉書・FAXの反応で番組進行・・、こんな造りには耐えられない・・。
誰にでも、何処の会社でも製作出来る・・。何も局外の製作会社に「外注」しなくとも局内で「従来通り」チマチマとやれば良いコトなのだ・・。
「参事」の企画書には低予算・低品質・低反応「UHF局・スパイラル」から「脱却」させる外連味も在った・・。
わたしは答えて見せた・・。開局以来1度も採用した事が無い、必要が無かった「タイムキーパー」」を東京から連れて行き、番組の「進行速度」を上げ、情報量を多岐に網羅し、局プロデューサーに懇願された「洋楽PVの紹介」は1回の放送で3曲以内・1曲あたりのオンエアは60秒に規定した・・。放って措いたら「フルコーラス最後まで、好きなだけ」流せと言い出すだろう・・。
『MOONラビット』4クール目の続投打診が局側からあった時点で、わたしは疲弊しきり降板した・・。これ以上会社に「迷惑」も掛けられない・・・。


最終日の放送終了後の夜、「千葉テレビ」局舎裏手の大きな「割烹」で局プロデューサー主催の
「お別れ打ち上げ」が開催された・・。
「高原」氏他、「堀江 淳」氏、女性キャスターの「赤堀容子」氏、「高橋圭三プロ」の女性リポーター・マネージャー諸氏、「芸神集団アミューズ」の「エンジェルス」の皆さん、落語家「桂 竹丸」氏、局スタッフ、わたしの会社社長以下大勢の大宴会・・。
・・番組は4クール目に突入するが、わたしが降板するコトで「わたしの会社」、「高原」氏他「エンジェルス」等の面々の一切が撤収となり、移籍するプロデューサーとADのみが続投・・。
ビールも料理も味がしなかった・・・。
わたしの最後の「ご挨拶」も複雑なものに成った・・。
あまりの大勢の人数と駅繁華街からかなり遠い、千葉刑務所のある小高い丘上ゆえ、2次会に移動するも多数のタクシー送迎が必要で、おまけに2次会費用そのものなど、誰も捻出出来ない・・。
我が社の「社長」(作曲家・筒美京平」氏の従兄弟)も、しっかり「撤収」のつもりである・・。
「東京」は遠いのだった・・・。
三々五々、お後はご自由に・・、という「苦しい雰囲気」
の中、闇深い「割烹」の表にぞろぞろ向かう・・。
提灯明かりの玄関先で「高原 兄」氏が傍に立つ「堀江 淳」氏に人知れずつぶやいた・・。
彼の声はよーく通るのだ・・、「歌手」だもん・・。
「フツー、こういう時、花束くらい在るよなァ・・。」
「高原」氏は何事も無かったように声を掛けて来た。「ハタノちゃん
飲みにイクヨ
」
「花束」のコトも気まずく、疲れきっていたわたしは、まるで逃げるように現場を後にした・・。

(テレビ画面より)
「スンマセン、兄ィ・・。」



もう、沢山稼いだみたいだし、許してね・・。
今度遇ったらご馳走してクダサイ・・。
「高原 兄」氏。

(テレビ画面より)
関東の「千葉テレビ放送」で『情報バラエティ・MOONラビット』を担当した当時、大変お世話に成った・・。
以前、当ブログで再三触れたがTDLに『Star Tours』が登場し東京ベイに「ジュリアナ」がオープン、銀行のお金が


フォーマルウエアの社団法人が持て余した資金の一部を「電通」を通して、恒常的に厳しい経営環境にある「県域UHF局」に番組製作で資金提供し、わたしが在籍した会社が「おつきあい」で引き受けた・・。
受注金額が月額160万円余り

1クール分制作しても500万円を下回り、おまけに「生放送」の為、毎週千葉県まで出向かなくてはならないのだ。
「電通参事」は口にしなかったが、制作会社の「選定」には紆余曲折が在った筈である。
「つきあい」で引き受け、テレビカメラや編集スタジオを自社で所有し諸経費を(曖昧なる)グロス計算で処理し、更に制作スタッフの遣り繰りが就くカイシャ⇒わたしの居たカイシャ。
わたしの直属の上司は「長期間、安い仕事」にスタッフを丸抱えで捕られる「受注」に強い難色を示した。
当然のコトである・・。
一方で、わたしはといえば、継続的に自分の制作したものが、毎週、ナマ放送で、電波する・・。
小学生の卒業文集に描いた



渋るチーフプロデューサーを尻目に、この番組製作の合間に他社の業務も平行して「受けこなす」コトを前提条件に(実際は半年間で1本しかコナセナカッタ)社長と話をつけ、制作補4名をシフト制で迎え番組を立ち上げた・・。
月曜よる7時から1時間のナマ放送。全篇VTR番組ではナイ分、撮影取材や仕上げの編集作業の経費は削れる。
しかしながら、週あたり40万円しか無い予算からの高額な出演料捻出は厳しく、「少人数」で「スタジオ」の空気を盛り上げる番組進行が「必須課題」・・。
そこで


当時、名古屋テレビ『オジャマンないと』(昭和59年・1984年~)なる民間放送連盟賞優秀賞を受賞した深夜番組にメインとして出演中で、「太平サブロー」氏と共演の『尾行大作戦』と題する放送回のサンプルVHSを拝見し即決した・・。

(テレビ画面より)
「高原」氏の起用は「大成功」で、1クールで終える筈の番組を3クール延長した・。
この「改編」にあたり企画立ち上げ当初から、局側のプロデューサーは、現在の番組枠で


理由は1980年代より既に、かなり先行して県域UHF局の「テレビ神奈川」が「ミュージック・トマト」のタイトルで、




今にして想えば、「電通参事」の作成した赤字確定の「番組企画書」にわたしが



レコード会社が持ち込むPVを大量に漫然と流し、数通の葉書・FAXの反応で番組進行・・、こんな造りには耐えられない・・。
誰にでも、何処の会社でも製作出来る・・。何も局外の製作会社に「外注」しなくとも局内で「従来通り」チマチマとやれば良いコトなのだ・・。
「参事」の企画書には低予算・低品質・低反応「UHF局・スパイラル」から「脱却」させる外連味も在った・・。
わたしは答えて見せた・・。開局以来1度も採用した事が無い、必要が無かった「タイムキーパー」」を東京から連れて行き、番組の「進行速度」を上げ、情報量を多岐に網羅し、局プロデューサーに懇願された「洋楽PVの紹介」は1回の放送で3曲以内・1曲あたりのオンエアは60秒に規定した・・。放って措いたら「フルコーラス最後まで、好きなだけ」流せと言い出すだろう・・。
『MOONラビット』4クール目の続投打診が局側からあった時点で、わたしは疲弊しきり降板した・・。これ以上会社に「迷惑」も掛けられない・・・。





「高原」氏他、「堀江 淳」氏、女性キャスターの「赤堀容子」氏、「高橋圭三プロ」の女性リポーター・マネージャー諸氏、「芸神集団アミューズ」の「エンジェルス」の皆さん、落語家「桂 竹丸」氏、局スタッフ、わたしの会社社長以下大勢の大宴会・・。
・・番組は4クール目に突入するが、わたしが降板するコトで「わたしの会社」、「高原」氏他「エンジェルス」等の面々の一切が撤収となり、移籍するプロデューサーとADのみが続投・・。
ビールも料理も味がしなかった・・・。
わたしの最後の「ご挨拶」も複雑なものに成った・・。
あまりの大勢の人数と駅繁華街からかなり遠い、千葉刑務所のある小高い丘上ゆえ、2次会に移動するも多数のタクシー送迎が必要で、おまけに2次会費用そのものなど、誰も捻出出来ない・・。
我が社の「社長」(作曲家・筒美京平」氏の従兄弟)も、しっかり「撤収」のつもりである・・。



提灯明かりの玄関先で「高原 兄」氏が傍に立つ「堀江 淳」氏に人知れずつぶやいた・・。
彼の声はよーく通るのだ・・、「歌手」だもん・・。
「フツー、こういう時、花束くらい在るよなァ・・。」
「高原」氏は何事も無かったように声を掛けて来た。「ハタノちゃん


「花束」のコトも気まずく、疲れきっていたわたしは、まるで逃げるように現場を後にした・・。

(テレビ画面より)
「スンマセン、兄ィ・・。」




もう、沢山稼いだみたいだし、許してね・・。
今度遇ったらご馳走してクダサイ・・。
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Sugakico
こんにちは。昔々、FMラジオで聞いていた赤堀容子さんの声がまたどこかで聞けないかと探してこちらにたどり着きました。あんな全国ラジオでDJをしていたからには知名度は高いと思っていたのですが、不思議な事にネットに全く関連記事がないのに驚いているところです。一緒にお仕事されていたんでしょうか?うらやましいです。
高原兄さん、昔名古屋に住んでいたころによくローカル局の番組で見た気がします。「完全無欠のエビチャーハン!」ってCMはしょっちゅう流れていたように覚えています。
他の記事も読ませていただきましたが、業界の濃い話の数々に圧倒されました。またお邪魔させてください!
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