ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!
「早い!安い!旨い!」
久しぶりに近所の牛丼の「吉野家」で昼食を取った。
お目当ては「牛皿」の大盛りと並みご飯、ごぼうサラダ。
牛皿に少しのお醤油を垂らし、カウンターの一味ふりかけを軽く一振り・・。
ヨダレがでてしまう・・。

しかしながら店舗メニューにはいくら裏表を見回しても「牛皿」の記載が無い・・。
第一、昔から掛かっていた筈の壁掛けの「筆入れ木製札」も無い・・。
気の小さいワタシは、仕方なく「並とAセット」を注文した・・。
注文を終え改めて店内を見回してみる・・。
カウンター先のステンレス製のショーケース内が空だ・・。以前は特製の「お新香」が並んでいた・・・。
今にして想えば、甘辛味の牛飯に果たしてあの塩がキツメの「お新香」がマッチしていたのか疑問だ。
なのにあのショーケースに並ぶサマを見るとつい、手を出したものだ・・。

http://www.yoshinoya.com/about/new_style/index.html
公式ホームページでは家族連れや女性を意識して、清潔な店舗運営を一部謳っているが、実際にはほど遠い・・。
「日本マクドナルド」や「松屋フーズ」、「ゼンショー」のように店舗改装の資金余力が無く、相変わらず、「蛍光灯照明で薄暗く」「カウンターはくすんで汚い」のだ。「箸箱」や「紅しょうが壺」は手垢や汁ダレで汚れたまま放置。
掲示物の類いは殆んど整理され過ぎて、ほんとうに築地魚河岸の第一号店と客層に大差なく、工事関係の職人と外勤営業の御用達同然・・・。
厨房設備を除けば、夜逃げスタンバイOK!のムード満点だ・・・。


創業明治32年、上のテレビCMはわたしが中学生の頃のものと記憶している・・。
「吉野家」で必ず思い出すある「光景」がある・・。
国立文化財研究所の元所長で文学博士に「三隅治雄」先生という方がいらっしゃる。
わたしが在籍した「舞踊団」のご縁で、アフリカに視察にお出掛けになるといっては、成田空港にお見送りに行ったり、國學院大學での「聴講」にお招き戴いたりしていた・・。
現在の甲州街道と山の手通りがぶつかる交差点、東京・新国立劇場の向かいにその「舞踊団」の稽古場が在り、道の向かい側に当時かなりの坪数の広さの「吉野家」が在った・・。
テレビ出演や地方取材の多忙な合間を縫って、「先生」は「舞踊団」の「稽古」に立ち会った。
くだんのCMがテレビで放映され始めて、余程気になったのであろう、「先生」は「あの吉野家の牛丼を食べてみたい」と仰った・・。
お世話する係りの者がやんわり「反対」して他の出前を薦めたが、頑なに「召し上がる」と云う・・。
仕方なく、わたしが牛丼弁当(当時可能だったのか生玉子も)を買いに走った・・。
「先生」は食べ終えて満足そうに、熱い日本茶をすすった・・。その手には当時100万円した日本初の、国産デジタル時計が鈍い金色に光り輝いていた・・。
朝の連続テレビ小説の直後から、放送を開始するNHK「あさイチ」。

本当によく出来ている。民放他局にはとても真似の出来ないきめ細かな「企画立案」「検証」、「データ放送」との自在なリンク・・。

デイリーの朝ナマ番組で此れほどの「品質」を誇るのは、世界でも例が無いだろう。
番組連動のホームページも詳細で丁寧、「放送」というものが「人」の「生活」を側面から「文化的に、豊かに支援」できうる、ということをこの情報氾濫のご時世にきちんと「実証」している・・。
司会のお二人の「人柄」も抜群に功を奏している・・。
他人の「ゴシップ」や「飲食店食べ歩き」、「高級衣料品・宝飾店舗」の新規出店こそが「情報の定番であり王道」である、とその態様を「昭和」の頃より漫然と変えようとしない民間放送キー局一律の「思い込み」。
「少数」「弱者」を切り捨て、広告代理店「電通」に踊らされる「生活視点」こそ、現在のテレビ疲弊の源泉である・・。
「国営」の大規模な編成の製作陣容に叶うわけ無いダロ!莫迦!!と云われそうだが、果たしてそうであろうか?
国家中枢の首都東京で、生え抜きの東京人(と言っても東京は地方出身者の集まりだが)が製作するものを、地方は黙って受け止めて「流して」いれば済んだ時・・。
田中角栄元総理の人口100万人以下の小都市部でも「民間放送4チャンネル」を堅持させる配置政策により、番組製作能力の低い土地の、有力者の子弟で組織を固め、上級役員は東京から「派遣」し、こじんまりとした局舎を田舎国道郊外に建設し・・・。
そんな時代でも優秀な「放送人」が制作したのが、日本テレビ放送網の「ズームイン朝!」(1979年・昭和54年~2001年・平成13年)

毎日・毎朝、全国の系列局が中継車を出動させ、それはもう、必死で創り上げた・・・。
東京・麹町の「日本テレビ」展示室を約4億円掛けて改装した「マイスタジオ」。
日本初のスタジオと副調整室を壁で仕切らずにスタジオ背景とする「演出」が大好きであった。
通信衛星を使用したお仕事で、その「マイスタジオ」で映像スイッチャーを勤める「Mさん」、音声ミキサーの「Oさん」らと長くご一緒したが、早朝の「番組運営」のサマは、傍から見て「壮絶」に見えた。
深夜から早朝にかけて勤務し、さらに他の「日中」の放送業務もこなさなくてはならず、「健康」の維持と「睡眠不足」との日常的な葛藤・・。
一時在籍した技術制作会社「C」社も「ワンポイント英会話」のナマ中業務継を担当していた。
業務開始当初は東京の「放送専門学校」の「超」中古テレビ中継車を払い下げて貰い、中継に従事した・・。
九州出張でご一緒した福岡のとある映像技術会社「F」の方と、接待でお食事をご一緒する機会があった。
1千万円する「放送用テレビカメラ」を始めて導入し、最初は「ブライダルビデオ」やら「日本舞踊」の発表会の収録業務からスタートしたが、その「カメラ」購入がキッカケで「ズームイン」の業務依頼が始まった、という・・。
皆、「チャンス」を掴み「必死」で生きてゆくのだ。
わたしも「チャンス」を掴まなければ・・、ここで「落ちる」訳にはゆかないのだ・・。
「早かった(ダメになるのが)安かった(人間が)不味かった(人生が)」
それにしても「吉野家」の「凋落ムード」感は、どうなのだろう・・。
久しぶりに近所の牛丼の「吉野家」で昼食を取った。
お目当ては「牛皿」の大盛りと並みご飯、ごぼうサラダ。
牛皿に少しのお醤油を垂らし、カウンターの一味ふりかけを軽く一振り・・。
ヨダレがでてしまう・・。

しかしながら店舗メニューにはいくら裏表を見回しても「牛皿」の記載が無い・・。
第一、昔から掛かっていた筈の壁掛けの「筆入れ木製札」も無い・・。
気の小さいワタシは、仕方なく「並とAセット」を注文した・・。
注文を終え改めて店内を見回してみる・・。
カウンター先のステンレス製のショーケース内が空だ・・。以前は特製の「お新香」が並んでいた・・・。
今にして想えば、甘辛味の牛飯に果たしてあの塩がキツメの「お新香」がマッチしていたのか疑問だ。
なのにあのショーケースに並ぶサマを見るとつい、手を出したものだ・・。

http://www.yoshinoya.com/about/new_style/index.html

「日本マクドナルド」や「松屋フーズ」、「ゼンショー」のように店舗改装の資金余力が無く、相変わらず、「蛍光灯照明で薄暗く」「カウンターはくすんで汚い」のだ。「箸箱」や「紅しょうが壺」は手垢や汁ダレで汚れたまま放置。
掲示物の類いは殆んど整理され過ぎて、ほんとうに築地魚河岸の第一号店と客層に大差なく、工事関係の職人と外勤営業の御用達同然・・・。
厨房設備を除けば、夜逃げスタンバイOK!のムード満点だ・・・。


創業明治32年、上のテレビCMはわたしが中学生の頃のものと記憶している・・。
「吉野家」で必ず思い出すある「光景」がある・・。
国立文化財研究所の元所長で文学博士に「三隅治雄」先生という方がいらっしゃる。
わたしが在籍した「舞踊団」のご縁で、アフリカに視察にお出掛けになるといっては、成田空港にお見送りに行ったり、國學院大學での「聴講」にお招き戴いたりしていた・・。
現在の甲州街道と山の手通りがぶつかる交差点、東京・新国立劇場の向かいにその「舞踊団」の稽古場が在り、道の向かい側に当時かなりの坪数の広さの「吉野家」が在った・・。
テレビ出演や地方取材の多忙な合間を縫って、「先生」は「舞踊団」の「稽古」に立ち会った。
くだんのCMがテレビで放映され始めて、余程気になったのであろう、「先生」は「あの吉野家の牛丼を食べてみたい」と仰った・・。
お世話する係りの者がやんわり「反対」して他の出前を薦めたが、頑なに「召し上がる」と云う・・。
仕方なく、わたしが牛丼弁当(当時可能だったのか生玉子も)を買いに走った・・。
「先生」は食べ終えて満足そうに、熱い日本茶をすすった・・。その手には当時100万円した日本初の、国産デジタル時計が鈍い金色に光り輝いていた・・。




デイリーの朝ナマ番組で此れほどの「品質」を誇るのは、世界でも例が無いだろう。
番組連動のホームページも詳細で丁寧、「放送」というものが「人」の「生活」を側面から「文化的に、豊かに支援」できうる、ということをこの情報氾濫のご時世にきちんと「実証」している・・。
司会のお二人の「人柄」も抜群に功を奏している・・。
他人の「ゴシップ」や「飲食店食べ歩き」、「高級衣料品・宝飾店舗」の新規出店こそが「情報の定番であり王道」である、とその態様を「昭和」の頃より漫然と変えようとしない民間放送キー局一律の「思い込み」。
「少数」「弱者」を切り捨て、広告代理店「電通」に踊らされる「生活視点」こそ、現在のテレビ疲弊の源泉である・・。
「国営」の大規模な編成の製作陣容に叶うわけ無いダロ!莫迦!!と云われそうだが、果たしてそうであろうか?
国家中枢の首都東京で、生え抜きの東京人(と言っても東京は地方出身者の集まりだが)が製作するものを、地方は黙って受け止めて「流して」いれば済んだ時・・。
田中角栄元総理の人口100万人以下の小都市部でも「民間放送4チャンネル」を堅持させる配置政策により、番組製作能力の低い土地の、有力者の子弟で組織を固め、上級役員は東京から「派遣」し、こじんまりとした局舎を田舎国道郊外に建設し・・・。


毎日・毎朝、全国の系列局が中継車を出動させ、それはもう、必死で創り上げた・・・。
東京・麹町の「日本テレビ」展示室を約4億円掛けて改装した「マイスタジオ」。
日本初のスタジオと副調整室を壁で仕切らずにスタジオ背景とする「演出」が大好きであった。
通信衛星を使用したお仕事で、その「マイスタジオ」で映像スイッチャーを勤める「Mさん」、音声ミキサーの「Oさん」らと長くご一緒したが、早朝の「番組運営」のサマは、傍から見て「壮絶」に見えた。
深夜から早朝にかけて勤務し、さらに他の「日中」の放送業務もこなさなくてはならず、「健康」の維持と「睡眠不足」との日常的な葛藤・・。
一時在籍した技術制作会社「C」社も「ワンポイント英会話」のナマ中業務継を担当していた。
業務開始当初は東京の「放送専門学校」の「超」中古テレビ中継車を払い下げて貰い、中継に従事した・・。
九州出張でご一緒した福岡のとある映像技術会社「F」の方と、接待でお食事をご一緒する機会があった。
1千万円する「放送用テレビカメラ」を始めて導入し、最初は「ブライダルビデオ」やら「日本舞踊」の発表会の収録業務からスタートしたが、その「カメラ」購入がキッカケで「ズームイン」の業務依頼が始まった、という・・。
皆、「チャンス」を掴み「必死」で生きてゆくのだ。

「早かった(ダメになるのが)安かった(人間が)不味かった(人生が)」
それにしても「吉野家」の「凋落ムード」感は、どうなのだろう・・。

- 関連記事
-
-
卒業と胎動・・。 2013/07/19
-
卒業。 2013/07/18
-
あしたの先の「道標」・・・。 2013/07/15
-
「下心」に物陰から「キュー」! 2013/07/13
-
30年目に明かせる真実。失脚の経緯②。 2013/06/18
-
30年目に明かせる真実。失脚の経緯①。 2013/06/11
-
越え行く、時。 2013/06/02
-
牛皿回顧録。 2013/05/10
-
ばったり、出くわす。 2013/04/18
-
MOONラビットの花束。 2013/03/29
-
複雑な1位です・・。 2013/02/25
-
ばかおとこの道標・・。 2013/02/22
-
転覆。 2013/02/09
-
何処すわってんだ、バカ・・。 2013/02/03
-
心機一転・・、か・・。 2013/01/12
-
スポンサーサイト
この記事のトラックバックURL
http://19601118hhj.blog.fc2.com/tb.php/185-56740b76