ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!


Sabo Kaikan (2006.05.06).jpg
自民党最大派閥木曜クラブ事務所があり、「砂防会館」の名は当時の「田中角栄」氏の代名詞であった。
「ロッキード事件」では、主な現金授受の場所と認定された。
1982年・昭和57年わたしがまだ22歳当時、このブログで度々登場する『舞踊団』の公演が、ある日行われた。
関西を拠点にする「舞台演出家」を迎えての「ミュージカル作品」。
「浅利慶太」氏「日下武史」氏ら「劇壇四季」が、収益拡大とその先を目指し、新宿の空き地にテント劇場を仮設したのもこの年である。
『舞踊団の師匠』は「EXPO70大阪万博」や「都をどり」、「日劇」等日本の近代舞踊の「振付」をこなした方。
発足させた「舞踊団」を株式会社に格上げしたものの、年金・保険の加入は当時の情勢としても存在せず、元旦以外満足な休暇も無く、朝から終電車間際かそれ以降タクシーで帰宅する毎日。手取3万円。
38歳で急逝した母親の没後から5年、家に居れば家族の食事も洗濯もせねばならず精神的にはかなり「疲弊」していた、と思う・・。
関西の演出家A先生は、新宿新都心に程近い、シティホテルに舞台演出の制作期間中、連泊。
山の手通り沿いに在った稽古場にはタクシーで通った。
ホテルでの食事を取りながらの打合せ、お茶を飲みながらの打合せ、稽古場までのタクシー代、演出助手との食事代・・。全てわたしの自腹。(自腹というより間接的には我が家のサラリーマンの父が払っているようなもの)
「仮払い」はおろか「雑費経費」そのものを精算する「概念」が、誰にも無かった・・。
今、思い出すと腹が立つ。
制作陣は音楽作曲・制作、演出助手、構成脚本家、印刷物制作デザイナー・・・、皆、大阪制作。
それを、東京へ「持帰る」システム。皆、演出家A先生のブレーン。
オーケストラ編成の音楽録音では大阪のとあるレコーディングスタジオへ、単身出向いて立ち会った。新幹線の交通費以外、事務所は用意しなかった。移動・打合せ雑費全て、またもや「自腹」。

MBS Senrioka Broadcasting Center.JPG

今後、組む予定も何も無い・・。(自分が顔繋ぎしたいだけなのだ)
宿泊はB氏に阪急系の高級ホテルへ案内されたが、「そんな舞台予算は付いていないんですよ」とフロント・ロビーで丁重にお断りした・・。(宿泊費も自腹)
そのB氏の本業は「アド・コンサルタント」らしく、会社にも案内された。
演出家A先生はその会社の顧問も務める。
公演用のチラシ・・パンフ・チケットの印刷をB氏に請負ってもらう先生の指示。費用の振込先を知らされ、数週間後、指示通り支払を済ませた。
入金日の翌日、東京の事務所のわたしの元へ、B氏から猛烈な「クレーム」電話が入る。「印刷代をお支払い戴いていない様ですが!どうなってます?!」
狼狽・恐縮するわたしは、慌てて入金先の銀行へ問い合わせると、当時は丁寧に、「入金日に百科事典の引落に全額振り替え済みでございますが?」と言う。
あろうことか、B氏は個人名と法人名を連結させた口座に個人のクレジット契約金を意図して振り替えさせたのだ・・。
「作品」のマネージメントを預かる身としては『舞踊団の師匠』に経緯だけ説明し、「コト」をこれ以上荒立てぬ様にした・・。
東京・246号線沿いに「創価学会幹部」の経営する中華料理レストランがあり、その店舗駐車場のプレハブ小屋にA先生の取巻き、C氏が寝泊りしていた・・。
「ハタノ、チョット話が在るんやけど・・。」深夜タクシーで急ぎ向かうと、長髪のC氏が煙草を吸いながら待っていた。
「A先生がな、当面の経費が足らん、と言わはってるんや・・・。」
何のことは無い。生活費の無心である。
仕方なく『舞踊団の師匠』にその旨伝えると、「普通、そういうお金はご自分で出すもんだけどねェ・。」と金庫から(領収証を切らずに)数十万円を取り出した。
ミュージカル公演で使用する「楽曲」は、わたし自身が「ステレオ音源」とするよう指示した。
「モノラル音源」と製作金額に差異は無いので、そう所望し、劇場ホールでも「ステレオ再生」を目指した。
これが、そもそもの間違いであった・・。
ホール既設の音響設備を利用する「発想」自体が欠如しており、音楽再生のオープンリールデッキから音声調整卓、PAスピーカーの全ての搬入設置を「外注」した。これも間違い・・。
通常のホール音響を賄う業務用機材は「舞踊団の自前」で充分揃えて在ったにも関わらず・・・。
22歳の小僧が、現場経験僅か6年あまりで、見得張って「トレーニングも積まない未知の機材」でオペレーションする・・・。(馬鹿まるだしである)
わたしはこのミュージカル作品の「舞台制作」と「舞台音響」の両方を担当した。
これが最大の間違い・・。22歳の小僧に両方は無理なのだ・・。
この歳になってみて振り返れば、それがどんなに「リスク」のあるコトかは容易に想像が付く。
子供の遊びや学芸会運営では無いのだ・・。フツー、片方で手一杯。
わたしを、その両の業務に配属したのは『件の師匠』ご自身なのだ。
数々の国際文化交流事業をこなし、文化庁芸術祭でも賞レースで優勝し、「スマイリー小原」氏も挨拶にみえるような「振付界の大御所」の「マネージメント」そのものの、失敗である。
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東京・下北沢あたりの小劇場や公民館の催事とは内容も規模も訳が違う。
疲弊しきっていた・・。家でも、「舞踊団」でも。なによりも演出を始め大阪の取巻き連中の相手に数ヶ月、翻弄され続けた。
公演開催が迫ると、演出家A先生は東京・新宿の宿泊ホテルに作家のD氏を呼び寄せた。小太りでロン毛パーマで牛乳瓶底のような眼鏡を掛けた奇妙なヒト。(これでまた経費が増える)
ダンス指導の助手としてE氏も「稽古」に参加した・・。(これでまた経費が増える)
更には「ハタノが好きに使ってくれてイイヨ」と長身でギョロ目のF氏を不意に、あてがわれた・・・。(これでまた経費が増える)
大阪の演出家先生は「舞踊団」と演出契約をした訳だが、何の約定も交わさない中で、日ごとに自前のブレーンを呼び寄せてしまった。
「信越化学」なる何の脈略も無い合成化学企業からもG氏が「稽古場」に現れ、演出家A先生は「ハタノ、マイクスタンドでも何でも言えば作らせるヨ」等と、意味不明・頓珍漢に引き合わされ、22歳の小僧の混乱・狼狽に拍車を掛けた。
全てはわたしが「お相手」するのだ・・。
「砂防会館」ホールでの公演を翌日に控え、照明・大道具美術関係者も含め、前夜の稽古には熱が入った・・。
稽古中、演出プランの大幅な変更が在った。
このことに因り、演奏に使用する大阪でレコーディングした「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に、「Aロール」「Bロール」各々編集し直す必要が発生した・・。

Open reel audio tape.jpg
「ハタノ、ワルイな・・。」最終稽古終わりに大阪弁で演出家先生は仰った。
「ハイ、ダイジョブです・・。」(全然、大丈夫では無い)
時計の針は夜10時を回った。これから明日のリハーサルに向けた準備だ。衣装・小道具・機材の積み込みの手伝い。大阪の取巻き連中を送り出したら真夜中に成った・・。
顔は冷たく、目だけが重く、朝から何も口にしていない、低血糖状態・・。(風呂も何日も入っていない)
傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。(22歳のわたしには彼の為に「仕事」を造る作業自体が猛烈にストレスだった)
「喰わなきゃ、倒れる・・。」鬱陶しい思いでF氏を仕方なく引き連れ、新宿・歌舞伎町にタクシーを走らせ、当時、まだ店舗の数少ない「松や」で食事を採り、再びタクシーで明け方の事務所に舞い戻った。(この金もF氏の食事もまた自腹、取巻きは一切自分では払う気が無い)
「楽曲」の演奏配列を全てエンディング迄、アタマから順に編集し直す作業が残った・・。傍には相変わらず長身ギョロ目のF氏が居る。ただ、居る。
(敢えて手伝わせるコトは何く、この「音編集」作業は素人さんには手伝いは無理)
音声機材を前に猛烈な睡魔が襲う。
外が薄っすら明るくなり始め遠くで、雀が囀りだした・・。
久々に「松や」の重厚でしっかりした食事を採った「カラダ」は休息を強烈に要求した・・・。
(この場で進めるべき作業機会をあっさり失った)
「仕方ない、ホールで作業するしか無い・・・。」タクシーを急ぎ拾い、F氏を連れ「砂防会館」へと向かう。
「嵐」が来た。
「制作担当」としてホール管理者に挨拶、各セクションの搬入作業者に挨拶、チラシ・パンフの準備、それと並行して音響機材のセッティング、瞬く間に「貴重な作業時間」が「高速」で消えてゆく・・・。

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「楽曲」の編集作業を始めると、途中さまざまに「声」が掛かる。
舞台効果で使用するドライアイスの業者が来たので「支払いをお願いします!」
「食事代金の精算をお願いします!」「何処へ置きますか?」「パンフは何処に降ろしたかしら?」
大阪の制作陣も順にやって来る、ひと言二言、挨拶を交わす。
リハーサルの時間が来た。
(ここで「ステレオ音源」での公演を諦めれば良かったのだ)
ステレオ再生可能な民生用テープデッキ×2台、SE等モノラル再生の放送業務用テープデッキ×3台。
大阪の演出家A先生に了承を求め、モノラルデッキで変則的に再生し、リハーサルを無事、終えた。
リハを終えても尚、制作雑務が残り、肝心な楽曲編集は「店晒し」になった。
(時計の観念の無い、子供な判断である)
「開場時間」と為り「客入れ」が始まる。
「客入れ」でスグ、「開演」時間。
舞台袖下に陣取った「音響席」で重苦しい「時間」が流れる。
編集作業は終わらない。(終わる訳も無い)
開演時間を大幅に過ぎ、一向に始まらない様子に客席が次第にざわつき始めた。
周囲を大勢に無言で囲まれた。(唾も出ない)
「アト、どれ位で終わるの?」
『舞踊団の師匠』はわたしを煽るでもなく、こう切り出した。
(見通しが正確に答えられる状況では無いが恐らく、適当に応えた)
マイク回線を1本空ける様わたしに指示すると、舞台の緞帳前で「挨拶と制作の経緯」をスピーチし始めた。
「発狂」しそうな状態で、「本番OK」を出せたのは開演予定を1時間半位は優に超えていた、と思う・・。(記憶が無い)
いよいよ、開演本ベルが鳴る・・・。舞台だけは何としても成功させなくてはならない。
わたしは、音楽再生用デッキのPLAYボタンを押し、音声卓の音量を上げた・・。
壮大な弦楽奏のオープニングテーマ曲が流れ(る筈であった)。
「無音」のまま、凍りついた如く、緞帳幕が開く。
「客席」はおろか、永田町の「会館」全体を「まっしろ」な空気が襲う。

「楽曲」の再配置編集に気を盗られ過ぎ、ステレオ再生のケーブルを、リハーサルの時間に間に合わせで繋ぎ変えたまま、サウンドチェックの精神的余裕も無く、そのまま舞台監督に「GO!」を出し、再生してしまったのだ。
仮設の真っ暗な長机の下にL/Rの音声ケーブルが垂れ下がっていた・・・・。
(今でもこの光景は目に焼き付いている)
以下、次回更新。
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