ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!
流れる筈の「オープニング曲」が“深い闇”へと吸込まれ「ホール」に居た観客はもとより、オープニング出演者、他、舞台袖で待機中の出演者、全スタッフが皆、「凍りついた」であろう・・・。

http://jp.freepik.com/
瞬間冷凍・・。
30年を経て、今尚、わたしの「脳裏」に、その光景は常に「瞬間解凍」出来る状態に在る。
どんな時でも・・・。
「殺人」や「交通事故」の”記憶 ”を背負うかの如く、「つきまとう」。
当時、若干22歳、今、52歳・・・。
2台のステレオ再生オープンリールデッキ、3台のモノーラル再生オープンリールデッキ、1本のMC用マイク、3本の舞台音声を収音するノイズマイク、4波4本の主役級や「挿入歌」を歌うタレントに持たせる、個別周波数帯のワイヤレスマイク・・・。

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業務用音声調整卓には「検聴」あるいは「プリフェーダー・リスン」と云って眼前の調整卓まで「音声信号」が問題く届いているか、ヘッドフォンやモニタースピーカーで確認出来る回路が在る。
在籍した「舞踊団」の劇場音響業務から、殆どの都内大型ホテルでのコンベンション・サービスの催事音響、デビュー当時の松田聖子氏から他幾多のアイドル歌謡ショウ音響を足掛け7年、致命的な大きな「事故」無く、勤めて来た。(細かな出来事は次回)それなのにこの始末。

http://jp.freepik.com/
「舞踊団の師匠」 (故人)の指示権は「絶対」で有る。
今更それについてトヤカク言及しない。
52歳・・・。
今のこの歳で、ひと通りの「社会経験」を積ませて戴いて思うならば、22歳のコドモ小僧にアレモコレモ、「不眠不休」で本人の「修行の為」にと「委ねる真似」は、わたしならば、絶対にしないであろうと云う事・・・。
それに尽きる・・・。
上演の舞台上では、「エンディング」に向けて若手の「仲間たち」が必死で「挽回」を「演じる」・・。
巻き戻す「針」は無い。
それでも「拍手」に包まれて「幕」は閉じたのだろう(記憶が無い)。
大幅に遅れた
終演時間の為、大至急、撤収せねばならない。落胆している暇も「お詫び挨拶」に回る暇も無い。(他の事のように簡単に楽屋廻り出来る状況にも無い)
大阪の演出家A先生が「音響ブース」の見下ろせるデッキにやって来た。「澱んだ笑顔」が「こころ」に辛い。(スイマセンでした、位は言葉を交わしたと記憶する)その場の返答も記憶が無い。
大勢の撤収作業でごった返した筈だが、ここでも記憶は抜け落ちている。
唯一、覚えている光景が在る。
「砂防会館」ホールの真っ暗な駐車場での事。
機材の積み込みを終え、今度は「事務所」での積み降ろしの為に帰途に付こうとした時、東京・渋谷の「東横劇場」でも大変お世話に成った舞台照明チーフのT氏の運転するワゴン車が、わたしに近づいて来た。
「おつかれさまでしたァ!」折れた気持ちを奮い立たせるかのように、大きな声でご挨拶した・・。
メキッ!バーンッ!!わたしが足元に置いていたお気に入りの軽ジュラルミン製の私物入れトランクがワゴン車に轢かれ大きな音を立てた。
T氏はそのまま、素知らぬ顔で、クルマから降りるでも無くフルアクセルで暗闇の向こうへ走り去った・・・。
(普段、とても温厚は方であったが、この時ばかりは、思い知れ!ってとこか)
おそらく、その日の深夜、 「舞踊団の師匠」に「お詫び」に行った。
「寝たんだって?・・・。」 その言葉以外、どんな会話をしたのか覚えていない。
(長身でギョロ目のF氏がチクったのだ)
「プロなら大事な時に寝るな!」ってところか・・・。
ボコボコに潰れたジュラルミントランクを両の手でしっかりと抱え、タクシーで夜中の自宅に帰った・・・。
これ以上関われない・・・。
中学入学と同時に踏み込んだ「舞台人生活」と「サヨナラ」する時が来た・・。
高校2年生の時に急逝した母に"死の前夜”「(舞台音響の世界で)一流に成れるよ!」と宣言して僅か5年・・。
わたしは22歳で、ひとつの「商業公演」を潰してしまった・・・。
数日後の夜、思いがけず、その「ミュージカル公演」で主役を務めたW君がわたしの自宅をわざわざ訪ねてくれた・・。
東京・阿佐ヶ谷の商店街の外れの狭い「お好み焼き屋」で、覚えたての
「ビール」を飲み交わし、少し、話をした。信仰に根ざした、彼なりの「自信」に満ちた話であった・・。
これ以上関われない・・・。
「苦悶」し布団から出られなくなったわたしに代わり、「我が父」が自ら、2度と跨げなく成った「舞踊団の師匠」の元へ「退団」を願いに行った・・。
「辞める」と決めたら、少し「こころ」が軽くなる気がした。
「舞踊団の師匠」に「ご挨拶」する事無く、数日後の昼間、「事務所」に私物や自前の機材の一部を引き取りに行った。
山と積んだ荷物を玄関先で揃え、タクシーを待った・・。
「アナタハ、もう、ここの「ヒト」じゃ無いんだからね!」
創価学会の「金庫番」と週刊誌で騒がれた「N総務」のご長女が冷たく早く立ち去れ、とばかりにわたしを煽った。(精一杯の憎まれ愚痴なのだろう)
細身で、清楚で、色白で、グラマーな澄んだ栗毛色の彼女が、わたしは大好きだった・・。
わたしは「砂防会館」駐車場でトランクを轢き潰された時のように、またしても抵抗しようの無い「虚しさ」に打ちのめされた・・・。
レンガタイルの敷き詰められた稽古場玄関に、コの字型に敷かれた「スノコ」が飴色に輝いて居た・・・。
半年後、東京・六本木の映像制作会社に入社し長期「沖縄ロケ」の後、五反田の「ゆうぽうと簡易保険ホール」で開催された「舞踊団」の夏の新作公演を、真っ黒に日焼けした顔でフラリ、観に訪れた。(これも馬鹿まるだし)
生憎、舞台は殆ど終演近くで「フィナーレ」しか拝見出来なかった・・・。
公演の熱気覚めやらぬ楽屋出口に向かうと、「仲間たち」が口々にわたしの名を呼び、笑顔と歓声の中で小突き廻された。
突然、その中から笑顔の「師匠」が現れニコニコしながら、「マッタク、楽屋にくらい!挨拶に来るモンダヨ!」と「大きな手」でわたしのお尻を叩いた・・・。
その「夜」の五反田駅周辺は、とてもまばゆく「輝いて」見えた・・・。
いくつもの「夏」
が過ぎ、わたしもテレビ朝日を経て、千葉テレビの情報生番組に携わる。
「小谷実可子」氏のシンクロスイミングの演奏曲を作曲する女性や、グラビアアイドル「小栗香」氏のマネージャなどに短編インタビューをするコーナーを設けたが、企画枯れから、「無作法」を承知で「舞踊団」で修行する、団員女性の「取材」を申し込んだ。(快諾を戴いたが、自分の立場が判っていない莫迦)
その番組が2クール目に突入し、「局舎」全体を利用した大掛かりな生中継を行った。
再び「師匠」にムリなお願いをして、「祭り中継」のゲストとして出演依頼をさせて戴いた・・・。
当時、故・「黒澤 明」監督の映画「夢」の「振り付け」と「出演」の真っ最中で、超多忙につき「NGです!」と当時のマネージャー氏に一度は断られたが、 「師匠」ご自身が「出てあげなさい。」とご指示され、再びご足労下さった。
よる8時の生放送終了後、「黒澤プロダクション」が車両手配し、「舞踊団メンバー」をロケ地の富士山麓方面へ乗せ出発した。(申し訳無い気持ちでお見送りした)
幾年が過ぎ、やがてわたしが全国ネットの情報番組をいくつも担当するようになり、番組完成の度に「師匠」宛に番組宣伝の「番宣はがき」なるものを何度かお送りした・・。
18年前、結婚を機に「披露宴」のご案内のお便りを差し上げたらば、折り返し後輩で今や「舞踊団」の重鎮Tさん が、半端ではない厚みの「ご祝儀袋」を託されて、自宅に尋ねて見えた・・。
つい最近、その「師匠」が不覚にも突然、亡くなられたのを、かなり後でネット上の訃報サイトで知った。政財界・各国大使館関係者をはじめ多くの弔問を受けた・・。
丁寧なお礼を「微塵」も言えていないまま、時だけが無闇に流れ過ぎていつの間に「お別れ」となった・・・。
舞踊団のホームページに重ね重ね「非礼」をお詫びのつもりで、一筆お送りした(本来ならばお手紙を郵送すべきなのに)。
「師匠」先生亡き後、新代表を務めるH氏から、超多用な中を、又もや、ご丁寧なご挨拶の「お手紙」を頂戴してしまった・・。
これで、最早、一生、お詫びしつつ生きる他無い事を、更に自覚した・・。
長机下の垂れ下がったL/Rの音声信号ケーブル」2本は、「死ぬまで」背負うのだ。

http://www.cinematoday.jp/page/N0026556
ばかおとこの道標・・・・。
古い記事が、面白い、『ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生』
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瞬間冷凍・・。
30年を経て、今尚、わたしの「脳裏」に、その光景は常に「瞬間解凍」出来る状態に在る。

どんな時でも・・・。
「殺人」や「交通事故」の”記憶 ”を背負うかの如く、「つきまとう」。
当時、若干22歳、今、52歳・・・。
2台のステレオ再生オープンリールデッキ、3台のモノーラル再生オープンリールデッキ、1本のMC用マイク、3本の舞台音声を収音するノイズマイク、4波4本の主役級や「挿入歌」を歌うタレントに持たせる、個別周波数帯のワイヤレスマイク・・・。

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業務用音声調整卓には「検聴」あるいは「プリフェーダー・リスン」と云って眼前の調整卓まで「音声信号」が問題く届いているか、ヘッドフォンやモニタースピーカーで確認出来る回路が在る。
在籍した「舞踊団」の劇場音響業務から、殆どの都内大型ホテルでのコンベンション・サービスの催事音響、デビュー当時の松田聖子氏から他幾多のアイドル歌謡ショウ音響を足掛け7年、致命的な大きな「事故」無く、勤めて来た。(細かな出来事は次回)それなのにこの始末。

http://jp.freepik.com/
「舞踊団の師匠」 (故人)の指示権は「絶対」で有る。
今更それについてトヤカク言及しない。
52歳・・・。
今のこの歳で、ひと通りの「社会経験」を積ませて戴いて思うならば、22歳のコドモ小僧にアレモコレモ、「不眠不休」で本人の「修行の為」にと「委ねる真似」は、わたしならば、絶対にしないであろうと云う事・・・。
それに尽きる・・・。
上演の舞台上では、「エンディング」に向けて若手の「仲間たち」が必死で「挽回」を「演じる」・・。
巻き戻す「針」は無い。
それでも「拍手」に包まれて「幕」は閉じたのだろう(記憶が無い)。
大幅に遅れた

大阪の演出家A先生が「音響ブース」の見下ろせるデッキにやって来た。「澱んだ笑顔」が「こころ」に辛い。(スイマセンでした、位は言葉を交わしたと記憶する)その場の返答も記憶が無い。
大勢の撤収作業でごった返した筈だが、ここでも記憶は抜け落ちている。
唯一、覚えている光景が在る。
「砂防会館」ホールの真っ暗な駐車場での事。
機材の積み込みを終え、今度は「事務所」での積み降ろしの為に帰途に付こうとした時、東京・渋谷の「東横劇場」でも大変お世話に成った舞台照明チーフのT氏の運転するワゴン車が、わたしに近づいて来た。
「おつかれさまでしたァ!」折れた気持ちを奮い立たせるかのように、大きな声でご挨拶した・・。
メキッ!バーンッ!!わたしが足元に置いていたお気に入りの軽ジュラルミン製の私物入れトランクがワゴン車に轢かれ大きな音を立てた。
T氏はそのまま、素知らぬ顔で、クルマから降りるでも無くフルアクセルで暗闇の向こうへ走り去った・・・。

おそらく、その日の深夜、 「舞踊団の師匠」に「お詫び」に行った。
「寝たんだって?・・・。」 その言葉以外、どんな会話をしたのか覚えていない。
(長身でギョロ目のF氏がチクったのだ)
「プロなら大事な時に寝るな!」ってところか・・・。
ボコボコに潰れたジュラルミントランクを両の手でしっかりと抱え、タクシーで夜中の自宅に帰った・・・。

これ以上関われない・・・。
中学入学と同時に踏み込んだ「舞台人生活」と「サヨナラ」する時が来た・・。
高校2年生の時に急逝した母に"死の前夜”「(舞台音響の世界で)一流に成れるよ!」と宣言して僅か5年・・。
わたしは22歳で、ひとつの「商業公演」を潰してしまった・・・。
数日後の夜、思いがけず、その「ミュージカル公演」で主役を務めたW君がわたしの自宅をわざわざ訪ねてくれた・・。
東京・阿佐ヶ谷の商店街の外れの狭い「お好み焼き屋」で、覚えたての

これ以上関われない・・・。

「苦悶」し布団から出られなくなったわたしに代わり、「我が父」が自ら、2度と跨げなく成った「舞踊団の師匠」の元へ「退団」を願いに行った・・。
「辞める」と決めたら、少し「こころ」が軽くなる気がした。
「舞踊団の師匠」に「ご挨拶」する事無く、数日後の昼間、「事務所」に私物や自前の機材の一部を引き取りに行った。
山と積んだ荷物を玄関先で揃え、タクシーを待った・・。
「アナタハ、もう、ここの「ヒト」じゃ無いんだからね!」
創価学会の「金庫番」と週刊誌で騒がれた「N総務」のご長女が冷たく早く立ち去れ、とばかりにわたしを煽った。(精一杯の憎まれ愚痴なのだろう)
細身で、清楚で、色白で、グラマーな澄んだ栗毛色の彼女が、わたしは大好きだった・・。
わたしは「砂防会館」駐車場でトランクを轢き潰された時のように、またしても抵抗しようの無い「虚しさ」に打ちのめされた・・・。

レンガタイルの敷き詰められた稽古場玄関に、コの字型に敷かれた「スノコ」が飴色に輝いて居た・・・。
半年後、東京・六本木の映像制作会社に入社し長期「沖縄ロケ」の後、五反田の「ゆうぽうと簡易保険ホール」で開催された「舞踊団」の夏の新作公演を、真っ黒に日焼けした顔でフラリ、観に訪れた。(これも馬鹿まるだし)
生憎、舞台は殆ど終演近くで「フィナーレ」しか拝見出来なかった・・・。
公演の熱気覚めやらぬ楽屋出口に向かうと、「仲間たち」が口々にわたしの名を呼び、笑顔と歓声の中で小突き廻された。
突然、その中から笑顔の「師匠」が現れニコニコしながら、「マッタク、楽屋にくらい!挨拶に来るモンダヨ!」と「大きな手」でわたしのお尻を叩いた・・・。
その「夜」の五反田駅周辺は、とてもまばゆく「輝いて」見えた・・・。
いくつもの「夏」

「小谷実可子」氏のシンクロスイミングの演奏曲を作曲する女性や、グラビアアイドル「小栗香」氏のマネージャなどに短編インタビューをするコーナーを設けたが、企画枯れから、「無作法」を承知で「舞踊団」で修行する、団員女性の「取材」を申し込んだ。(快諾を戴いたが、自分の立場が判っていない莫迦)
その番組が2クール目に突入し、「局舎」全体を利用した大掛かりな生中継を行った。
再び「師匠」にムリなお願いをして、「祭り中継」のゲストとして出演依頼をさせて戴いた・・・。
![]() | 夢 [DVD] (2006/07/14) 寺尾聰、マーティン・スコセッシ 他 商品詳細を見る |
当時、故・「黒澤 明」監督の映画「夢」の「振り付け」と「出演」の真っ最中で、超多忙につき「NGです!」と当時のマネージャー氏に一度は断られたが、 「師匠」ご自身が「出てあげなさい。」とご指示され、再びご足労下さった。
よる8時の生放送終了後、「黒澤プロダクション」が車両手配し、「舞踊団メンバー」をロケ地の富士山麓方面へ乗せ出発した。(申し訳無い気持ちでお見送りした)
幾年が過ぎ、やがてわたしが全国ネットの情報番組をいくつも担当するようになり、番組完成の度に「師匠」宛に番組宣伝の「番宣はがき」なるものを何度かお送りした・・。
18年前、結婚を機に「披露宴」のご案内のお便りを差し上げたらば、折り返し後輩で今や「舞踊団」の重鎮Tさん が、半端ではない厚みの「ご祝儀袋」を託されて、自宅に尋ねて見えた・・。
つい最近、その「師匠」が不覚にも突然、亡くなられたのを、かなり後でネット上の訃報サイトで知った。政財界・各国大使館関係者をはじめ多くの弔問を受けた・・。
丁寧なお礼を「微塵」も言えていないまま、時だけが無闇に流れ過ぎていつの間に「お別れ」となった・・・。
舞踊団のホームページに重ね重ね「非礼」をお詫びのつもりで、一筆お送りした(本来ならばお手紙を郵送すべきなのに)。
「師匠」先生亡き後、新代表を務めるH氏から、超多用な中を、又もや、ご丁寧なご挨拶の「お手紙」を頂戴してしまった・・。
これで、最早、一生、お詫びしつつ生きる他無い事を、更に自覚した・・。
長机下の垂れ下がったL/Rの音声信号ケーブル」2本は、「死ぬまで」背負うのだ。


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ばかおとこの道標・・・・。
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