ヤメディレクターの後悔懺悔粉飾人生 60過ぎた元全国ネット番組のディレクターで、外国人妻を持つアホ男の過去と今、「仕切り、仕切られる」激動の人生模様を続々更新! 次々と「小出し」に明かされる衝撃のパンドラの箱!!古い記事も充分、面白いデス!是非!
東京で過した青春時代の年末年始の忙殺状態・・。
何処のどんな世界でも同様であろうが、私の場合、巷で言われる「働き盛り世代」に移行するずっと以前にある意味、そのピークを迎えてしまった。
東京・千代田区にある「国立劇場」、同じく渋谷の東急百貨店に在った「東横劇場」、武道館等大規模な集客会場での音響サービスを行う「東京音響通信研究所」、「新橋演舞場」の音響サービス会社、「新宿京王プラザホテル」等の宴会音響サービス会社、下北沢の「本多劇場」等中小の劇団に出入りする個人経営の音響効果屋さん・・・。
山のように「音響オペレーター」「音響効果マン」の作業をいたずらに引き受けた・・。
とりわけ、小学校から始めた日本舞踊・民族舞踊を演ずる「舞踊団」との公演関係は引き受けた業務の中で最も多く6割を占めた。
その大半は「無給」であったので、尚更他の仕事を請けて生活の糧、というより都心の移動にかかる膨大な交通費と必要に迫られた「外食」に消えてゆくのだ・・。それとて決して充分な額では無く、結局サラリーマンだった父に毎日のように1万円、地方に行くと言っては5万円、と無心し続けた・・。
過去、このブログでさんざん記述したので、併記を避けるが、その「舞踊団」の代表先生(故人)は名実共に広範な活動で成功を収めた人で、わたしの今の人生に大きく係わった方だ・・。
創価学会員で構成された「舞踊団」はそのコネクションにより、海外派遣の文化使節としての活動や国内最大の音楽鑑賞団体(当時)や公明党の選挙活動、機関紙「聖教新聞」の慰安公演等に借り出された・・。
これが「無給」の所以である。
遥かむかし、わたしは度重なる「舞踊団」の音響業務で一週間程度の期間徹夜作業を繰返し、東京・虎ノ門のホールで過呼吸となり救急搬送された・・。点滴を打たれ絶対安静の事態。
その日の催事公演の音響業務は、わたしが日頃お世話に成っていた国立劇場の師匠の計らいにより急遽代役を立て、スタッフの遣り繰りをお願いし、何とか無事終了した、と人ずてに入院ベッドで聞いた・・。
この仕事と並行して九州民音という創価学会系音楽鑑賞団体主催での「舞踊団」の長期公演が予定されていた。
ホールで倒れてから数日後、「舞踊団」メンバーの諸先輩方が病院へわざわざお見舞いに見えた。
自立神経の失調と肝機能低下、栄養失調、手足・顔が冷たく動悸の止まらない日々・・・。
不整脈もあった。
九州出発の目前に成って「舞踊団」の代表先生(故人)の「意思」を伝えに、中堅の男性舞踊手(故人)がわたしの病室へやって来た。
公演直前過ぎて、(舞台稽古による音響操作の習得等)わたしの代役を勤める、依頼出来る外注音響サービス業者はイナイ。九州の音響サービス会社を貴方の下請けに配置し、音響機材の搬入・搬出とセッティングは全て任せられるカタチを採るので退院して、東京・豊島区公会堂での舞台リハーサルに出席するように、との『命令』を告げられた・・。
(今のわたしなら絶対にお断りするだろう)
「仕事を変えなければ、体調は元に戻らないですよ・・。」
総合病院の主治医はこの時期の退院に反対した・・・。容態が安定せず保証出来ないとマデ告げられた・・。
心臓は“悲鳴”をあげている・・・。
“行かなければ”迷惑をお掛けする・・・。糞のような信仰心(当時は創価学会員)から仕方なくベッドから這い出し数十名の出演者・スタッフらの待つ東京駅・銀の鈴へ向かった。
父は呆れていた。
福岡へ向かう新幹線の車中、舞踊団の副代表格の男性舞踊手がわたしの座席にヤッテキて、動悸の治まらない胸に分厚い「手」をアテガッタ。
猛烈な「苦しさ」を覚えた。嫌な「予感」がした。先は長いのだ・・・。
約半月以上続く九州公演は、博多、長崎、鹿児島等大都市圏を中心に回るコースでは無く、Bコースと呼ばれる日田、日南、佐賀等中都市圏を回るコース。
当時、福岡で舞台音響・舞台照明を手掛ける大手の技術会社と合流し、ツアーは始まった。
巡演終盤、やはり、というか当然の如く舞台本番中に過呼吸に突然、見舞われ紙袋を口にアテガイナガラ公演を続けた。
公演終了直後、病院搬送・・。
入院は出来ないので、フラフラのまま深夜になり宿泊ホテルへ取って返した。
ホテルでは、「舞踊団」の代表先生(故人)が薄暗い部屋で呆れ顔で待ち受けていた・・・。
わたしの状態を気遣うでは無く、スポンサーである九州民音の事務長に何故迷惑を掛けるのかという趣旨で叱られた。
(無理を押して来いと「指示」したのはアンタだ)
東京に帰ったら、事務長宛に「詫び状」を書け、という。
若いわたしは孤独だった。もう、ここまで来ると平常心も正常な判断も無意味なのだ・・・。
具合が悪いのは「自分の信心」の揮わない所為、「スミマセン・・・・・・・・。」
(今にして思えば誠に不条理なハナシで胸糞が悪い)
冷え切った顔に涙が滲んだ。
入院の顛末もブログ内にありまっせ!
記事カテゴリーで探してちょんまげ!!


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何処のどんな世界でも同様であろうが、私の場合、巷で言われる「働き盛り世代」に移行するずっと以前にある意味、そのピークを迎えてしまった。
東京・千代田区にある「国立劇場」、同じく渋谷の東急百貨店に在った「東横劇場」、武道館等大規模な集客会場での音響サービスを行う「東京音響通信研究所」、「新橋演舞場」の音響サービス会社、「新宿京王プラザホテル」等の宴会音響サービス会社、下北沢の「本多劇場」等中小の劇団に出入りする個人経営の音響効果屋さん・・・。
山のように「音響オペレーター」「音響効果マン」の作業をいたずらに引き受けた・・。
とりわけ、小学校から始めた日本舞踊・民族舞踊を演ずる「舞踊団」との公演関係は引き受けた業務の中で最も多く6割を占めた。
その大半は「無給」であったので、尚更他の仕事を請けて生活の糧、というより都心の移動にかかる膨大な交通費と必要に迫られた「外食」に消えてゆくのだ・・。それとて決して充分な額では無く、結局サラリーマンだった父に毎日のように1万円、地方に行くと言っては5万円、と無心し続けた・・。
過去、このブログでさんざん記述したので、併記を避けるが、その「舞踊団」の代表先生(故人)は名実共に広範な活動で成功を収めた人で、わたしの今の人生に大きく係わった方だ・・。
創価学会員で構成された「舞踊団」はそのコネクションにより、海外派遣の文化使節としての活動や国内最大の音楽鑑賞団体(当時)や公明党の選挙活動、機関紙「聖教新聞」の慰安公演等に借り出された・・。
これが「無給」の所以である。
遥かむかし、わたしは度重なる「舞踊団」の音響業務で一週間程度の期間徹夜作業を繰返し、東京・虎ノ門のホールで過呼吸となり救急搬送された・・。点滴を打たれ絶対安静の事態。
その日の催事公演の音響業務は、わたしが日頃お世話に成っていた国立劇場の師匠の計らいにより急遽代役を立て、スタッフの遣り繰りをお願いし、何とか無事終了した、と人ずてに入院ベッドで聞いた・・。
この仕事と並行して九州民音という創価学会系音楽鑑賞団体主催での「舞踊団」の長期公演が予定されていた。
ホールで倒れてから数日後、「舞踊団」メンバーの諸先輩方が病院へわざわざお見舞いに見えた。
自立神経の失調と肝機能低下、栄養失調、手足・顔が冷たく動悸の止まらない日々・・・。
不整脈もあった。
九州出発の目前に成って「舞踊団」の代表先生(故人)の「意思」を伝えに、中堅の男性舞踊手(故人)がわたしの病室へやって来た。
公演直前過ぎて、(舞台稽古による音響操作の習得等)わたしの代役を勤める、依頼出来る外注音響サービス業者はイナイ。九州の音響サービス会社を貴方の下請けに配置し、音響機材の搬入・搬出とセッティングは全て任せられるカタチを採るので退院して、東京・豊島区公会堂での舞台リハーサルに出席するように、との『命令』を告げられた・・。
(今のわたしなら絶対にお断りするだろう)
「仕事を変えなければ、体調は元に戻らないですよ・・。」
総合病院の主治医はこの時期の退院に反対した・・・。容態が安定せず保証出来ないとマデ告げられた・・。
心臓は“悲鳴”をあげている・・・。
“行かなければ”迷惑をお掛けする・・・。糞のような信仰心(当時は創価学会員)から仕方なくベッドから這い出し数十名の出演者・スタッフらの待つ東京駅・銀の鈴へ向かった。
父は呆れていた。
福岡へ向かう新幹線の車中、舞踊団の副代表格の男性舞踊手がわたしの座席にヤッテキて、動悸の治まらない胸に分厚い「手」をアテガッタ。
猛烈な「苦しさ」を覚えた。嫌な「予感」がした。先は長いのだ・・・。
約半月以上続く九州公演は、博多、長崎、鹿児島等大都市圏を中心に回るコースでは無く、Bコースと呼ばれる日田、日南、佐賀等中都市圏を回るコース。
当時、福岡で舞台音響・舞台照明を手掛ける大手の技術会社と合流し、ツアーは始まった。
巡演終盤、やはり、というか当然の如く舞台本番中に過呼吸に突然、見舞われ紙袋を口にアテガイナガラ公演を続けた。
公演終了直後、病院搬送・・。
入院は出来ないので、フラフラのまま深夜になり宿泊ホテルへ取って返した。
ホテルでは、「舞踊団」の代表先生(故人)が薄暗い部屋で呆れ顔で待ち受けていた・・・。
わたしの状態を気遣うでは無く、スポンサーである九州民音の事務長に何故迷惑を掛けるのかという趣旨で叱られた。
(無理を押して来いと「指示」したのはアンタだ)
東京に帰ったら、事務長宛に「詫び状」を書け、という。
若いわたしは孤独だった。もう、ここまで来ると平常心も正常な判断も無意味なのだ・・・。
具合が悪いのは「自分の信心」の揮わない所為、「スミマセン・・・・・・・・。」

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