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コメント

チョッとかじっただけの事を、全て自分で手掛けたコトの様に描く、“イタイ人”。


“ヒトの縁・ヒトの繋がり”

既に20数年前に退会した「創価学会」。これが全ての“縁”の始まり・・・。

母方の実家は熱心な信者。「創価学会」は病人と貧乏人ばかり、と揶揄された時代。
母の実兄が日蓮正宗の本山の在る「富士大石寺」に、大都市圏から参拝の為、当時の「国鉄」が品川駅から特別列車を走らせ、富士宮の駅構内で「輸送班」として警護整理にあたっている最中、(運動神経の鈍いワタシ同様)ホームから列車の間に挟まれ轢死。

この事故を「創価学会会長・池田大作」氏が、自分のベストセラー小説(ガッカイ人しか買わない)に『輸送班の鏡』、『英雄』として掲載。
は当時、東京・杉並区に在住の小学生のワタシを「創価学会」の少年少女合唱団に通わせる。
その合唱団で指導補佐をしていたのが、「Kさん」「K」氏は「舞踊集団 菊の会」の舞踊家でもあった。
「舞踊集団 菊の会」は現在、文化庁の日本親善使節等で活動中。
舞踊団代表の「H」先生氏(故人)も創価学会幹部。映画や万博、都をどりの振り付けを多数手掛けた昭和の舞踊家。

合唱団の「K」氏が学会での小説掲載を期に、ウチの地域にこんな“子”が居る、と持ちかけ、その舞踊団に入会を薦める。(以下はブログに記載済みの為省略)
鼓は六本木在住の、父君が人間国宝の「T」先生に習い、紋付袴姿で、銀座か何処かのホールで演奏した。
長唄・三味線も「H」先生氏の義弟で、やはり人間国宝を父に持つ梅が丘在住の「Y」先生に習い、紋付袴で同様に演奏した(場所の記憶が無い)
運動能力が鈍く、覚えが悪く、背が低く、「アンタ、在日だろ」の批判の通り、眉毛の薄い、顔にコンプレックスを抱いた少年は、「H」先生氏から将来的に、自分の舞踊団の舞踊手としては“不向き”、と感じたのだろう。何かにつけて「中途半端」「社会党みたいだ」等と罵られた。

15、6歳の子供を捕まえて「社会党」と言われても・・・。

「H」先生氏としては、「池田大作」氏の期待に応える意味合いも含めて、ワタシを入団させたのだが“使えない奴”と判断しても不思議では無い。
当ブログ過去記事の通り、母の逝去に伴い、舞踊団の退団を申し出たものの、「池田」氏の手前上、ワタシのリクエストを受け入れ、“裏方”へ転向。

「H」先生氏の旧知だったのが東京・半蔵門「国立劇場」音響課「Y」氏。(注:ガッカイとは関係ございません)

高校の授業を終えると、真っ直ぐ劇場へ向かい、ミキサー室からひたすら「狂言」や「歌舞伎」を見学。
「Y」氏の個人経営の音響サービス会社で“音響エンジニア”としてアルバイトしながら、舞踊団での山のような量の音響業務も、連日徹夜でこなした。

若くても、不摂生はやはり祟るモノ・・・、劇場や地方のホールから救急車で搬送されるコト2回。

やがて舞踊団を退団し、半年間休養後、求人誌で見た東京・六本木の半分AV制作半分Vシネ制作の会社にバイトAD勤務。
“畑”の違い過ぎるアダルトの制作にうんざりし、同じ六本木のテレビロケ技術制作会社から「テレビ朝日報道局報道取材部」へ出向。
その社の、社内公募のコンペでゴー・サインを戴き、「会社案内ビデオ」を、当時の精算経費で700万円程の予算で“初演出”
当時の社長「I」氏(故人)に作品が認められ、営業職を経て制作ディレクター。

当時民営化直後の「NTT」の映像製作で東京・銀座「NTTアド」出向。
チョットかじった訳では無い、宅内通信機器、デジタルPBX、催事展示映像、電話帳催事、博覧会催事を演出。
他に出向先以外で、東京・築地で「本田技研」「花王」のCM制作を手掛けていた「VTR BIS」で「横浜ゴム」のトラックバス用タイヤPV。英国消防庁の公認ソフトに認定された火災報知器メーカー「ホーチキ」のPV。

「I」社長には大変気に入って頂き、引き立てを受け、深く、恩恵を受けた。
ご自宅にも何度かお呼ばれし、泊めていただいたりもした・・。
若い私に振りかかった女性問題にまでご心労をお掛けし、止む無く会社を転職・・。

その後、東京・佃で作曲家「筒見京平」氏の従兄弟「Y」氏が経営するビジネスPVを大量に製作する会社へ。
「N」氏という超敏腕プロデューサーの下、怒涛の制作日記が始まる・・。

東京・日比谷の広告総合代理店「第一企画」が窓口でチョットかじった訳では無い、表計算の「ロータス」ジャパンの国際PR、工業金型製作に欠かせない「ニコン」の三次元座標測定器PV、あらゆる部門のお仕事を戴いた・・。
東京・築地の電通系産業映画・CM専門の製作会社「電通プロックス」で「日立製作所」のネットワークシステムPV。

東京・赤坂「TBS」のグループ会社「TBSサービス」では「三共製薬」の血液性状改善薬のPVや、「ダイヤモンドビッグ社」の当時のIT企業就職希望者向けガイダンス映画を。第一生命だったか?勧誘教材のPV「縁故紹介型セールス」・・。
東京・青山の三菱系総合広告代理店「アドメルコ」では三菱の下水道機能統合管理システムのPV・・・。企画コンペにもよく付き合わされた・・・。

この佃の製作会社の「Y」社長にも銀座に嫌というホド、お誘い戴き、よくお供させて頂いた・・。
 
おりしもバブル期経済の波に乗り、VHSテープのビジネスビデオ制作は、名だたる企業がこぞって作った時代。
転職すれば、給料手取り額も増え、自称ディレクター達が銀座・赤坂・六本木に溢れた時代・・・・。
仕事はパンクするが、ディレクターの足らない時代でもあった。
そんな流れにたまたま乗り、元来のテレビ好きな若造が、たまたま出逢った会社と、その経営者の方、関係組織の方々との不思議とも思える“出逢い”で異常とも思える発展を遂げる事が出来たのだ・・。
いずれの会社の社長も、カミサンとの結婚式には、お忙しい中を快く、ご足労いただいた。

ワタシの“経歴”が盛り込み過ぎで痛く、さして関わってもいないのに“自分ひとりですべてヤッタ”のは誇張が過ぎる、とは全く当たらない。
国営企業では無いので、どの会社でも三十数年前の発注書や制作コンテ、台本が保存されているとは思えないが、紛れも無く、“ヒトの縁”を辿れば、チョットかじって盛り込んだモノでは無い事は証明出来る。
こんな“経歴”の持ち主が「フィリピン人」と(ナンカと)結婚する訳が無い、とまで立ち入られた。

当時ワタシラの披露宴においで頂いたフジテレビのドラマ班ディレクター「N」氏の奥様は、ワタシとカミサンが出逢ったのと同じ東京・新宿のショウ・パブだ。

フィルム映画の作品製作に、ビデオばっかりでは無く、一度は関わりたいと、門を叩いた東京・新宿の「G」映画監督社長の事務所でさえ、当時はキー局のビデオ番組制作のみ。
しかし、その「G」監督のお仕事の“縁”で長く学校法人「河合塾」の衛星ビジネスに関わり、そのお疲れ会の流れで、監督にお連れ頂いたお店に、カミサンが居たのだ・・。

プロフィール、記事に偽り、誇張を避ける意味合いから、素の顔写真と私の実名で描いてきた・・。
一般的な良識から外れた人生だからこそ、後悔もし、懺悔もし、時を重ねる中で、許しも請いたい・・・、そんな願いと我がささやかなる人生の忘備録のつもりで、グズグズ書いている・・・。
細かな記憶が、日々、年々、曖昧に成って行く・・・。


プロフィールの欄のタレント以外の方の実名は本日以降、全てイニシャルに記載変更させて頂きました。


今後とも、宜しくお願い申し上げます。


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これが、アホダメおとこのプロフィール!

hata50

Author:hata50
波田野 広之
中学時代、歌舞伎の尾上一門にあたる尾上流舞踊家の畑道代氏(故人)に師事。舞踊集団菊の会在籍。
日本舞踊・民族舞踊・長唄・鼓・三味線を学び、高校在学中、実母の逝去に伴い裏方に転向、舞台音響家を目指し、元日本音響家協会理事・八板賢二郎氏に師事。

ANBテレビ朝日報道局報道取材部アルバイトを経て正社員。制作助手、ENG機材営業を経て社員ディレクター第1号。後、作曲家筒美京平氏の従弟が経営する日本ビクター傘下の映像制作会社勤務。
「早見 優のアメリカンキッズ」他千葉テレビ情報生番組「MOONラビット」総合企画・演出。NTT,Nikon,三共製薬、ロータスジャパン、横浜ゴム、日立、三菱、JVC等東証一部上場企業の産業ビデオ多数演出。

後、映画監督で日本映画監督協会専務理事・後藤幸一氏に師事。河合塾サテライト講座、朝日放送「素敵にドキュメント」「これは知ってナイト」「平成ふしぎ探検隊」他多数演出。
その縁で逸見政孝氏(故人)峰竜太氏、清水由紀子氏(故人)渡辺めぐみ氏らの発起人により、35歳で外国人妻と結婚。

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